以下は、福島からの保養に熱心な三重県の市長さんにチェルノブイリ法日本版について面談する際に、事前に渡した手紙(というより、なぜ、そしていかにチェルノブイリ法日本版なのかについて解説した説明文)。
面談したとき、市長は、この手紙に直接、コメントしなかったが、やや苦々しい表情で、自民党政府にこの要求は難しい、を述べるにとどまった。政治政策レベルではなく、50年、100年単位の人権レベルのことを問うているのだということを、その当時、自覚していなかったため、そこで貴重な「対話」がストップしてしまった。
その意味で、これは何が人々の「対話」を妨げるのか、これを反省させてくれる、とても貴重な資料だ。
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目 次
コメント2:放射能災害という現実に対する認識について--それは新しい形式の戦争なのか?--
コメント3:放射能災害からの正しい救済とは--それは新しい形式の戦争に相応しく、新しい形式と内容を備えた救済ではないのか?--
コメント4:チェルノブイリ法日本版条例の制定のビジョン--もうひとつの救済・復興は可能だ--
コメント5:振り出しに戻って--確信と情熱を持った人たちをどうやって見つけ出すか?--
コメント6:市長との面談のスタンス--公人でもなく、私人でもなく、一人の「個人」「市民」として面談--
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コメント1:何がチェルノブイリ法日本版条例制定の力なのか?
3.11以後明確になったのは、日本政府が戦争に向け、不退転の決意でもって準備に突き進んでいること(戦争法の成立。昨日の共謀罪の閣議決定…)です。
その戦時体制の準備にとって最大の障害物が情報公開法です。
いま、南スーダン派遣の自衛隊の日報を巡り、防衛省のトップレベルの隠蔽問題まで暴露され政府を揺るがしています。 たかだか1フリージャーナリストの開示請求のために、政府内部がガタガタになるなんて、政府にとって想定外の出来事のはずです。
このような事態をもたらしたのは自衛隊内部の「内部告発」もありますが、何といってもその根幹は市民による情報開示を認めた情報公開法にあります。
かつて、情報公開法の制定は自民党政権時代にはあり得ないことでした。しかし、国政レベルでも相手にされなくても、日本の市民は、草の根の力で、日本各地に、情報公開の条例を制定しまくって、その集大成、総決算として、国政レベルでも情報公開法の制定を実現させました。
日本が世界に誇る法律は憲法9条ですが、9条は連合軍のイニシアチブで作られたものであるのに対し、情報公開法は最初から最後まで、私たち市民自身の手で作り上げた手作りの作品です。
そして、この法律があるおかげで、代表民主制は私たち市民の前でガラス張りの政治・行政を余儀なくされ、権力者たちの闇取引が困難になります。
その意味で、この法律は、人々の人権を守る、憲法9条と並ぶ、市民が作り上げた日本が世界に誇る根本法です。
あって当然、けれどなくてはならない、あたかも生命体にとって水や空気みたいな存在、それが民主主義の命綱である情報公開法です。
この画期的な法律を自民党の反対を押し切って成立させたのは本各地で情報公開条例を制定しようとした日本各地の無数の市民の力です。
この仕組みはチェルノブイリ法日本版条例の制定も同じだと思います。
つまり、
日本各地でチェルノブイリ法日本版条例を制定しようとした日本各地の無数の市民が出現するかどうかにかかっています。
一握りの人たちだけの取り組みでできるはずがない。
そこで、どうしたら、チェルノブイリ法日本版条例を制定しようと思う人たちを日本各地で見つけ出すか(作り出すか)、それが最大の課題です。
この間、情報公開法制定の歴史を綴った機関紙の合本を一部の方に渡しましたが、そこに書かれている通り、
日本各地で情報公開条例を制定しようとした日本各地の人たちというのは、その必要性を確信していた人たちです。
なぜそうした確信を持っていたのか。それは、彼らがめいめい、自分たちが取り組んでいる課題、公害だったり、環境保護、食の安全、薬害問題‥‥を追及していくと、必ず国や自治体の情報隠しという壁に直面し、正しい情報開示なしには自分たちの取り組んでいる課題は解決しないことを実感として切実に痛感していたからです。
つまり、情報公開なしには環境も、命も健康も食の安全も守れない、ことを確信していたからです。
四日市の公害問題で知られる田尻宗昭さんも「環境保護は情報公開から」と強調しています。
だから、この人たちはほかならぬ自分自身の課題を解決する上でどうしても避けて通れない問題として情報公開の問題がある。だから、不動の確信を持って、まずは自分たちの地元から情報公開条例を制定しようと一生懸命取り組んだのです。
このような不動の確信を持った人たちが日本各地に出現したことが、日本各地で情報公開条例制定の原動力になったのです。
だとしたら、チェルノブイリ法日本版条例の制定も同様です。
チェルノブイリ法日本版条例の制定は「あって当然、けれどなくてはならない、あたかも生命体にとって水や空気みたいな存在だ」と、こういう確信と情熱を持った人たちをどうやって見つけ出すか。
それがチェルノブイリ法日本版条例の制定を左右するカギになるのだ、と。
で、見渡したところ、そんな確信を持った人はいるのだろうか。誰もみな半信半疑なのではないだろうか。
そう思うとき、沖縄の反戦農民阿波根昌鴻さんの言葉(「米軍と農民」11頁)が思い浮かびました。
31歳の彼は師と仰ぐ京都の西田天香さんのもとに行き、同人になりたいと希望したのに対し、「あなたは沖縄に帰って農業をしたほうがよい」と言われ、??と思い、「自分は身体も弱く、土地もなく、脳病の経験もない」と弁解したところ、こう言わました。
「土地も経験もいらない。ただ1つ大切なことは、あなたが私欲のために働くのか、それとも社会のために働くのか。それによって成功するか失敗するかが決まる」
そして、「社会のために働くならばすべて必要に応じて与えられる」
その意味で、全ては私たち自身の側にあるのだと思います。
コメント2:放射能災害という現実に対する認識について--それは新しい形式の戦争なのか?--
3.11以後、次から次へと異常な事態が続出し、こんな異常な経験は、仮に自分があと数百年生き延びたとしても経験できないほどの経験のように思われて、その中で自分が頭がおかしくなったのか、それとも政府が頭がおかしくなったのかと自問自答する日々が続きました。
その自問自答の中でひとつの答えに出会いました。それが「レイテ戦記」の作者大岡昇平がなぜ「レイテ戦記」を書いたのかと問われて述べた次の言葉でした。
ひとりひとりの兵士から見ると、戦争がどんなものであるか、分からない。単に、お前はあっちに行け、あの山を取れとしか言われないから。だから、自分がどういうことになって、戦わされているのか、分からない。
それで、戦争とはこういうもので、あなたはここに出動を命じられ、それで死んだんだということを、なぜ彼等は死ななければならなかったのか、その訳を明らかにしようとしたのです。
これは次のように考えたら、原発事故に遭った自分たちとピッタリ同じではないか。
3.11のあと、ひとりひとりの市民から見ると、福島原発事故がどのようなものであるか、どうしたらよいのか、真実は分からない。「健康に直ちに影響はない」「国の定めた基準値以下だから心配ない」とかしか言われないのだから。だから、一体自分がどういう危険な状態にあるのか、どう対策を取ったらよいのか、本当のことは分からない。
それで、ひとりひとりの市民にとって必要なことは、「レイテ戦記」のように、福島原発事故とはこのようなもので、このような危険な事態が発生していて、それに対して必要な措置を取らずにいると、言われるままにいると、ひとりひとりの市民には、今後、大変な健康障害が発生することを明らかにすることです(「ふくしま集団疎開裁判」は放射能に対する感受性の高い子どもに焦点を当てて、この真実を明らかにしようとしたものです)。
この意味で、原発事故は「戦争」に酷似している。ただし、これは通常の戦争のように直ちに即死する訳ではない。痛くも痒くもなく、目に見えない放射線による攻撃という「新しい形式の戦争」だということです。
放射能災害の「新しい形式の戦争」という本質を強調したのが、昨年のノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんです。彼女は「チェルノブイリの祈り」でこう書いています。
チェルノブイリ事故は大惨事以上のものです。よく知られた大惨事とチェルノブイリとを同列に置こうとしても、それではチェルノブイリの意味が分からなくなります。‥‥ここでは過去の経験はまったく役に立たない、チェルノブイリ以後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも、人々はこのことを考えたがらない。(今まで)こんなことを一度も深く考えたことがないからです。不意打ちを食らったからです‥‥
何かが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似た出来事も、体験も持たない。私たちの視力、聴力もそれについていけない。私たちの言葉(語彙)ですら役に立たない。私たちの内なる器官すべて、そのどれも不可能。チェルノブイリを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません。感覚の新しい歴史が始まったのです(「チェルノブイリの祈り」31頁)。
NHKBS「アレクシエービッチの旅路」から「前代未聞の新しい戦争について」
放射能災害の真実を理解するためには「人は自分自身の認識の枠から出なくてはならない」。さもないと、人々は自分とその子孫が「目に見えない、音もしない、新しい顔をした死」にやられてしまうことになる、現在の福島原発事故か未来の放射能災害かは別にして。
以下、このことを念頭において、放射能災害という現実に対する認識についてコメントします。
1、放射能災害の意味・本質について
放射能災害の他に類をみない特徴についてくり返し述べているのが菅谷明松本市長です。「原発事故と甲状腺がん」でもこう述べている。
放射能災害はこれまでの災害、天災とも人災とも全くちがう。(2014年時点で)原発事故から27年経過したチェルノブイリでも健康被害は今も終息していない。たえまのない放射線被ばくに脅かされ続け、福島原発事故の健康被害は現在進行形である。
2、日本政府の対策・救済
これに対し、日本政府がやったことは結局のところ、次の3つに要約される(基本的には、チェルノブイリ事故で実行したソ連政府の三大政策をより洗練させて踏襲したものです)。
①.様々な安全基準を引き上げること。
②.情報を隠すこと。
③、事故を小さく見せること。
①の最たるものが福島県の学校の安全基準の20倍引き上げ。
②の最たるものがSPEEDIの情報隠蔽。
③の最たるものが集団避難をせずに除染を励行。子ども被災者支援法を成立させるが、中身に入らず塩漬け(事実上の廃案)にし、帰還政策だけを推進。
3、その帰結1(福島原発事故の被災者)
一方で、福島から避難できない人たち、避難先から帰還した人たちは、みずからをマインドコントロール(苦悩の催眠術)にかけることにより、長期低線量被ばくの危険性から避難し、諦めと無念の中に身を沈めている。放射能の影響と思われる死去や発症の事実が闇の中に隠されていく。
他方で、福島や東日本から避難した人たちは、正当な救済が受けられないまま(あたかも交通事故でひき逃げに遭ったまま)自力で生活再建に取り組まざるを得ず、少なからぬ人たちが経済的貧困と孤立貧の中で、精神的にうつ病、虚脱状態に陥っている。
4、その帰結2(未来の被災者)
ノーベル賞作家スベトラーナ・アレクシエーヴィッチは「チェルノブイリの祈り」で、「私は未来のことを書き記している‥‥」と書いた。その通り、25年後に、チェルノブイリ事故で取られたソ連政府の三大政策は福島原発事故でも踏襲され、人々を苦しめた。
のみならず、ソ連政府の三大政策に抵抗しソ連市民が勝ち取ったチェルノブイリ法すら日本政府はソ連最大の失政として許さなかった。
その結果、原発事故は収束したと称して、チェルノブイリでは開催不可能だったオリンピック祭典すら日本では実施可能となった。
その結果、チェルノブイリ事故で取られた救済以上の過酷な救済策が実現された。
そして、この結果は未来のことを示している。
今日の福島の事故収束と人々の苦悩の姿は明日の日本各地の姿を写し出している。
先頃判決があった群馬原発避難訴訟の原告の「苦労した6年間はこんなものか」という声は「こいつはオレのことだ!」未来の私たちの声そのものだ。
http://www.asahi.com/articles/ASK3J6RH8K3JUTIL058.html (資料として添付)
コメント3:放射能災害からの正しい救済とは--それは新しい形式の戦争に相応しく、新しい形式と内容を備えた救済ではないのか?--
1、災害救済の原理原則
放射能災害からの救済の第1は「人間は放射能には勝てない」この真理から出発するしかありません。つまり、放射能の被ばくから脱出すること、脱被ばく=避難です。これに勝る救済はありません。
この点、政府は天災の火山噴火、地震津波からの救済の第1が噴火や津波から避難することと変わりません。
しかし、三宅島噴火や東日本大震災の津波では必要十分な範囲で避難を呼びかけながら、なぜ福島原発事故ではそのような避難を呼びかけなかったのか。
そこには被災地の事情は考慮されておらず、日本全体の政治経済の都合から避難の範囲が決定されたから。端的に、どんなに線量が高くても中通り地域の集団避難は、東北新幹線と東北自動車道の閉鎖という経済的影響の見地から許されなかった。
2、司法的救済の壁
2011年4月19日の、福島県内の学校の安全基準を20倍に引き上げる文科省の通知を知った時、文科省は気が狂ったのかと思い、同年6月、子どもたちの集団避難を求めるいわゆる疎開裁判を起こした時、このような史上最悪のいじめ(人権侵害)がまかり通るはずがない、そんな凶悪犯罪がまかり通るなら日本はおしまいだと勝訴を確信していました。
しかし、同年12月16日の一審の判決が野田前首相の収束宣言と同日同時刻頃出され、裁判所の周辺は装甲車が出動して警戒に当たり、マスコミからも完全黙殺される目に遭ったとき、「子どもたちの集団避難」は断じて認めないという日本政府の不退転の決意と彼らが自分たちがどんな凶悪な犯罪を犯しているかも自覚していることを思い知らされ、この問題は日本政府にとって背に腹を代えられない「現在の日本の政治経済システムの根幹を揺るがす問題」なのだと頭に叩きこまれました。
この立場は群馬原発避難訴訟の先頃の前橋地裁判決でも変わらないことが確認されました。一応、政府に原発事故発生の責任は認めたものの、被害者の具体的な救済の段になると、政府のこれまでのやり方で問題ないと全面肯定し、自主避難者は救済しないことを再確認したからです。
3、立法的(代表民主主義的)救済の壁
疎開裁判と同時期に立法化が進められていた「子ども・被災者支援法」も同様の目に遭いました。救済の抽象的、一般的な理念だけを掲げたこの法律は理念法として全会一致で成立しましたたが、いざ具体化する段になると一歩も前進せず、塩漬け(事実上の廃案)になりました。
私たち市民が正しい圧力をかけない限り、代表民主主義(お任せ民主主義)は茶番であり、人々のガス抜きに利用されただけで終わった。
4、問題の解き方の抜本的な見直し
これら司法的、立法的な救済が挫折した最大の理由は、福島の放射能災害が従来の災害とは抜本的に異なる性質なものであり、なおかつ子どもたちの集団避難は現在の政治経済システムにとってその存立を揺るがすような一大問題だからです。そして、にもかかわらず、この点を自覚できず、従来の災害の救済の枠組みの中で何とかなるのではないかと取り組んできたからです。
311で発令され今なお解除されていない「緊急事態宣言」は、文字通りにそのまま受け止める必要があったのです。オリンピックの祭典の騒ぎどころではないのです。
しかし、従来の災害の枠組みで考える限り何ともならなかった。もはや従来の災害の救済の枠組みの中では解決不可能なことを、この6年間、頭に叩き込まれたのです。
そこで、新しい酒は新しい皮袋に盛るように、「緊急事態宣言」に相応しい抜本的に新しい救済に向かうことが必要だった。
では新しい皮袋とは何か。それを明らかにするためには、
そもそもこの問題を解決するために必要な条件とは何かを明らかにする必要があるのではないか。
その条件を明らかにしてこそ、この条件を成就するために何をどういう風に準備し、実行していったらよいかが初めて明らかになるのではないか。
その時、問題の解決の実現に向けて、たとえ時間がかかろうとも、信念をもってゴールに着実に接近することができるのではないか、と。
信念をもった行動は、この条件の吟味抜きにはあり得ないのではないか、
と考え直すようになった。
それが、今回のチェルノブイリ法日本版条例の制定のビジョンを思い描く背景です
コメント4:チェルノブイリ法日本版条例の制定のビジョン--もうひとつの救済・復興は可能だ--
1、昔話(余談)
25年以上前、事務所を店じまいし、数学のニセ学生をしていた当時、大学で中国人留学生と知り合いました。その彼がこんなことを話してくれました。
「日本にはライフスタイルの基本として、衣食住と言いますね。中国ではもう1つ付け加わります。旅=移動することです。中国では移動することがライフスタイルの基本なのです」
事実、その彼も上海から日本に私費留学し、それから妹さんが住むカナダに移住した。
あとから知ったのですが、中国人にはそうした移動を可能にするセイフティネットが備わっていて、それが世界中至る所に存在するチャイナタウンだそうです。
中国から移住した人は、ひとまずチャイナタウンで最低限の生活が保障され、そこから自立に向けて旅立つことができる仕組みができている、と。
そのおかげで、中国人は元の場所に残るか、移住するか、2つの選択肢を選ぶ自由を持っている、と。
かつて、或る哲学者が、自由とは「選択肢が持てること」、そして進化するとは「選択肢が増えること」と言っていました。
それまで4本足で移動していた生物の中から、二本足でも移動することが可能になったとき、どちらの方法で歩くのかについて選択肢が増えたわけで、そこで二本足歩行を選択した生き物がヒトになった。
前代未聞の災害である放射能災害に対する救済は前代未聞の災害に相応しい新しい救済方法を見つけ出すしかありません。見方を変えれば、それは、これまでにはない新しい選択肢を見つけ出すことです。
これまでも、地球上の生物は、そのようにして新しい事態、新しい現実に適用すべく選択肢を模索し、運良くそれを見つけ出した生物が絶滅せずに生き延びました。
放射能災害という新しい現実を経験した人間も同様の課題に直面しているのだと思います。
2、「もうひとつの救済・復興は可能だ」とその特徴
単に、放射能災害に対する政府の政策(支援打切りや避難解除)に受け身で反対するだけではなく、市民の側から放射能災害に対する本来のあるべき救済のビジョンを私たち自身が積極的に打ち出し、これを実現することが求められています。
それが「もうひとつの救済・復興は可能だ」です。
その特徴は、一握りの専門家・政治家にお任せする民主主義ではなく、市民が自分たちの命と健康と生活という重要な運命を自らの手で決定していく市民の自己統治=直接民主主義の精神を政治と経済の両面で発揮することです。
3、その具体的な中身について
「もうひとつの救済・復興」は、市民の自己統治=直接民主主義の精神を発揮して、次の取り組みに挑戦する。
◎政治の面で、放射能災害から人々の命、健康、生活を守るという平和的生存権の保障を具体的に宣言した人権宣言=「チェルノブイリ法日本版の条例」を各自の暮らす自治体で市民自身の手で作り出していく。
◎経済の面で、放射能災害から避難した人々を受入れ、避難先で起業や雇用を創出し、人間らしい働き方と経済的自立を果たすためのセイフティネットを準備するために、市民の「協同労働=協同経営」による連帯経済・ワーコレのプロジェクトを避難先の自治体と市民の手で作り出していく。同時にそれが地域の活性化の取組みとリンクすることを目指す。
4、そのモデルについて
以上の2つの取り組みは人が空想するただのユートピアではなく、既に実証済みの現実のモデルがあります。それが、
◎政治の面で、代表民主主義による政治の独裁化にストップをかける情報公開法を市民の手で制定したモデル。
自民党政府が猛反対したにも関わらず、日本各地で多数の市民参加による草の根の条例制定運動が展開され、日本中の自治体が情報公開条例を制定する中で、その成果の上に法律制定を実現したという、未だ知られざる世界に誇る日本の市民運動の金字塔。
◎経済の面で、格差社会、地方の過疎の進行にストップをかける実例として、
(1)、人口3万の山形県長井市で成功した循環型システム「レインボープラン」。
(2)、1943年、スペイン内戦で敗北し荒廃した7千人の村を、28歳の神父アリスメンディアリエタたちが協同組合創設により自主的に経済再建したモンドラゴンの実例。
(3)、単なるお金の支援ではなく、お金をキーワードにして新しい仕事と仲間を作り出していった韓国の青年連帯銀行(トダクトダク協同組合)。
放射能災害の被害者の願いは第1に放射能による被ばくを免れること、と同時に避難先でも自ら経済的に自立できることであって、お金の補償自体は最終目標ではない。
だから、最終目標までイメージして、避難先で自ら経済的に自立できるように自立支援の取り組みがしっかり保障されていることのほうが重要。口先だけの絵空事ではない、真の意味での「自立支援」策が実施されることが望まれる。それが②の取組み。
5、まとめ
以上のビジョンを標語的に言えば、
①.政治的には、私たちの命と健康と生活は私たち自身の手で守る、市民の自己統治を放射能災害に即して再定義、再発見する。
これは特別な取組みではない。 生命にとって不可欠な空気や水のようなもので、
あって当たり前(必然性)
なくて本当に困るもの(必要性)
放射能災害がもう1つの戦争(核戦争)であることと向き合えば、これは憲法9条の放射能災害版のこと。3.11以後、憲法9条を守るとは、チェルノブイリ法日本版を制定し、これを実行ことを意味する。
以上から、チェルノブイリ法日本版条例とは、
放射能災害から命と健康と生活を守る人権の普遍法を、自分たちの地元自治体の市民が自ら宣言し、制定すること。
②.経済的には、大都市の大企業中心の経済システムに依存しない、日本各地の市民の自主的かつ相互扶助の経済システムに基づき、人間らしい働き方を再定義、再発見する。
同時に、それは311以来、非人間的な仕打ち、扱いを受け続けてきた人たちにとって、人間らしい働き方を見つけ出す中から生活の豊かさを再定義、再発見する取組みでもある。
③.もう1つのフェアトレードは可能だ
これまでに、第三世界の生産者の生産物(バナナ・コーヒー等)を日本の消費者が適正価格で購入して応援するというフェアトレードが実行されてきたが、今回は放射能災害の被害者(=避難者)が生産する生産物を避難先の市民が購入し応援する「もうひとつのフェアトレード」版。
④.もし福島から群馬に避難した群馬原発避難訴訟の原告の人たちが避難先で、これらのセイフティネットの恩恵に預かり、人間らしい働き方の場を見つけ出し、避難先の市民のフェアトレードの応援を受けれたならば、「奥さんがうつ病になること」も「苦労してきた6年間はこんなものか」と嘆くこともなかったのではないか。
⑤.原発事故をもたらした根本的な原因が安全・安心より経済的効率を最優先してきた現在の政治経済システムにあるとしたら、原発事故後に多くの被害者をろくな救済もないまま放置・棄民状態に置いた根本的な原因もまた、人々の命・生活より経済的効率を最優先してきた現在の政治経済システムにあることは明らか。
放射能災害で苦しむ人々に本来の救済を実現するためには、「経済的効率最優先の現在の政治経済システムが生み出す非人間的な病理現象」と向き合わざるを得ない。
政治経済システムを経済的効率最優先から人々の命・生活尊重にシフトすることに取り組まざるを得ない。
それは単に、被害者にお金をより補償するだけでは実現しない。国が必要な補償をするのは当然としても、他方でいつまでも国に依存することはできず、命・健康・生活を自ら守っていけるように自立へのロードマップを描く「もうひとつの救済は可能だ」を今こそ掲げる必要がある。
コメント5:振り出しに戻って--確信と情熱を持った人たちをどうやって見つけ出すか?--
最初の問いかけ:日本各地で情報公開条例の制定に確信と情熱を燃やした人々が出現して、今日の情報公開法制定の原動力となったように、
いま、チェルノブイリ法日本版条例制定に、確信と情熱を持った人たちをどうやって見つけ出すか?
以下は、暗中模索中の殴り書きの備忘録です。
戦国時代、一向一揆が盛んだった15世紀に、蓮如というお坊さんが、つぎのような文章を書きました。
「信心のある人は仏の力によって人を信心に導くことができる。物知りが人を導くのではなく、無学でも信心によって仏智を授かった者が、仏の力で人を信心に導く」
これを「チェルノブイリ法日本版条例制定の取組み」に置き換えると、次のように言うことができるのではないかと思いました。
確信のある人だけが、人を確信に導くことができる。チェルノブイリ法についての物知りが人を確信に導くのではなく、無学でも確信を抱いた者が、人を確信に導く。
では、
(1)、その確信とはどういうものなのか?
(2)、確信を抱いた人は、いかにして人を確信に導くことができるか?
(2)について、
蓮如は「仏の力」によってと言いました。
私は、浄土真宗の本質である「普遍宗教」という側面に着目して、「仏の力」を「神の力」に置き換え、普遍宗教(※)について考え直してみました。
古代の世界史において、ユダヤ教、仏教、キリスト教、イスラム教などがなぜ人々を動かしたのか?--それはそれらの教えが「普遍宗教」の性質を備えていたからだと言われています。
これら普遍宗教が説くことは、つまるところ次の2つに要約できます。
①.神を畏れよ。
②、他者を愛せ。
これは現代風に置き換えると、次のように言うことができます。
①.真実を畏れよ。
②.正義を愛せ。
つまり、神の力とは、真実の力と正義の力のことであって、
この真実の力と正義の力によって、人々を確信に導くことができる。
同時にこれは、(1)についても、
人は、真実の力と正義の力によって、確信に至ることができる、
を意味します。
これを「チェルノブイリ法日本版条例制定の取組み」に当てはめると、
(1)について、
放射能災害とそこからの正しい救済について、人々は放射能災害の真実と向き合い、放射能災害で苦しむ被害者と向き合うことにより、「チェルノブイリ法日本版条例制定」の必要性(これがなくては命と健康と生活を守れないという必要性)と必然性(生命体にとって空気や水がなくてはならないように、人が人として生きる限り、捨て去る訳にはいかない人間の尊厳を支える必然的なものである)について確信に至ることができる。
(2)について、
チェルノブイリ法日本版制定の必要性と必然性について確信を抱いた人は、真実の力と正義の力によって、他の人たちに、チェルノブイリ法日本版制定の必要性と必然性について確信に導くことができる。
(※)普遍宗教について、入門的な解説
http://www.asahi-net.or.jp/~jm9t-tyng/10_text/5-2_2nd_2.pdf
http://triceratops.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-26f5.html
コメント6:市長との面談のスタンス--公人でもなく、私人でもなく、一人の「個人」「市民」として面談--
こんな感じであれこれ考えてきて、少しハッキリしてきたのは、来週の伊勢市長との面談のスタンスです。
これまで、どういう感じで会ったらよいのか、正直、よく分かりませんでした。
従来ならば、自治体の有力者に会う、というスタンスです。
しかし、チェルノブイリ法日本版条例は、従来の災害の救済の枠組みが通用しないところで考え付かれたものです。
有力者という発想では、新しい酒を盛る新しい皮袋にはなりえないと思います。
ならば、どういうスタンスが可能なのだろうか?と自問自答していました。
‥‥これまでの文章を書いていく中で、それが少しずつクリアになりました。
以下が、それを述べたものです。
言ってみれば、沖縄の反戦農民であり、キリスト教者の阿波根昌鴻さんが取ったスタンスだと分かりました。
それは、普遍宗教の本質である「徹底した独立性と平等性」を維持し、発揮することです。
来週面談する○○市長の△△△△さんとは、公人でもなく、私人でもなく、あくまでも一人の「個人」としてお会いし、話をしたいと思います。
その理由は、チェルノブイリ法日本版条例の制定は、別に自治体の首長だから、率先して取り組むべき課題であるという訳ではなく、未曾有の放射能災害を経験した日本で生きる市民なら誰もが避けて通れない課題として存在するものであり、まずそのことを共有したいと考えています。
つまり、
私たち一人一人の市民が、「個人」として、そのことを自覚してこそ、次に、ではこれを制定するためにどうしたらいいのか、何ができるのかと考えることができるのだと思います。
逆に言えば、このことの自覚なしに、単に機械的に、革新的な首長なんだから(そのレッテルに相応しく)この条例の制定に努力するというのでは、そんな動機では条例制定を最後まで成し遂げる力は生まれてこないと思います。
その意味で、チェルノブイリ法日本版条例の制定の必要性と必然性を考える上では、市長とか有力者だとか市民活動家だとかいうのは一切関係ありません。一人の「個人」としてこの問題と向かいあうしかないからです。
その中で、各自が自分のスタンスでできることを考え、今回の彼なら「市長」としてできることは何だろうかと考えることができると思います。
ひとりの「個人」としての自覚だけがチェルノブイリ法日本版条例の制定を最後まで成し遂げる力の源泉なのだと思います。
その意味で、チェルノブイリ法日本版条例の制定を最後まで成し遂げる確信を持った「個人」としての市民をどれだけ見つけ出せるかにかかっています。
その積りで、「個人」である△△△△さんと話をしたいと思います。
以 上
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