2018年9月29日土曜日

NOでは足りない、もう1つのあべこべは可能だ--3・11以降の希望の全ては一つの条例に詰め込まれている--

以下は、千曲川・信濃川復権の会」の会報「奔流の特集「市民立法『チェルノブイリ法日本版」に寄せた文です。

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自主避難者の人の言葉

3・11原発事故がなかったら出会うこともなかった、恐らく出現しなかったと思われる、自主避難者の人の次の言葉が胸に焼きついている――3・11以来、百戦百敗、ずっと負け続けてきた、と。なぜ無惨に負け続けているのか。それは私たちが3・11以後の現実に追いついていないからで、この事態を打開するためには、3・11後の未曾有の現実と向き合い、これを認識する勇気を持つ必要があるのではないか。

福島原発事故が明るみにしたもの

3・11原発事故が突きつけたもの――それは子どもの命・人権を守るはずの文科省や医学者が20mSv通知や「放射線の影響はニコニコ笑ってる人には来ません。クヨクヨしてる人に来ます」等発言で「日本最大の児童虐待・最悪のいじめ」の張本人となり、加害責任を負う政府が救済者のつらをして、命の「復興」は口を閉ざし、経済の「復興」に狂騒し、汚染地の被害者は「助けてくれ」という声すらあげられず、経済的「復興」の妨害者として迫害され、密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を演じる。狂気が正気の振りをし、正気が狂気扱いされている。3・11ショックのどさくさ紛れの中で、「全てがあべこべ」の「見えない廃墟」の世界が出現したことにある。

 問題は、私たちがこの悪夢のような出来事を前にして、「うそでしょう」「夢であって欲しい」と今なお茫然自失のショック状態にいることである。そのため、今なおこの現実と対決することができず、引きこもりかオリンピックのお祭り騒ぎかという現実逃避の中にいる。子どもの命を守るためにはこの現実逃避から抜け出す必要がある。そのためにまず、次の問いが重要である――どうしてこんなあべこべの世界がもたらされたのか。それは偶然なのか。違うとしたら、このあべこべをもたらした原動力は何か。

「あべこべ」をもたらしたもの
ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」(岩波書店)

 ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」というメガネをかけてあべこべの世界を眺めた時、3・11以後の「あべこべの世界」はショック・ドクトリンの正しい適用にすぎないことを見出す。
 「ショック・ドクトリン」の原理は「危機のみが真の変革をもたらす」であり(山下俊一語録「ピンチはチャンス」)、それゆえひとたび危機が発生したら、人々の茫然自失状態のうちに、変革を一気呵成に強行することが肝心で、この間に断固とした行動を取る機会を逸すれば、変革のチャンスは二度とやってこないと肝に銘じている。それが一方で、事故直後のどさくさ紛れに福島県のみ(!)学校安全基準の20倍引き上げの通知、ミスター100mSvの異名を持つ山下俊一発言と彼の設計による欺瞞的な福島県の県民健康調査、被害者の救済を原発周辺の住民に限定し、それ以外には徹底した自己責任(新自由主義)を押し付け、他方で、秘密保護法の成立、集団的自衛権の行使容認の閣議決定、安保関連法の成立、共謀罪の成立と戦争に突き進む、憲法違反を承知で強引な政治改革の実現――それは3・11前には考えられなかったような、火事場泥棒の法的クーデタ[1]と呼ぶほかない異常事態である。
言い換えれば、3・11以後の日本は国中が原発事故に翻弄された国難などではなくて、「ピンチはチャンス」の山下語録の通り、原発事故という危機をここぞとばかりに、私たちが茫然自失のショック状態の間に、一気呵成に、原発事故前には不可能だった政治改革を実現した千載一遇のチャンスだったのである。「惨事便乗型資本主義」と命名された「ショック・ドクトリン」の手法は、3・11以後の日本で「惨事便乗型政治改革」として実行され、この政治改革の下で「惨事便乗型資本主義」の経済「復興」に邁進している。

チェルトコフ「チェルノブイリの犯罪」(緑風出版)

このストーリーはチェルノブイリ事故でも実行された。映像作家チェルトコフはこれを「チェルノブイリの犯罪」と呼んだ。これに従えば、3・11以後の日本は「福島の犯罪」と呼ぶのが相応しい。小説家カミュはこう書いた「犯罪という猛烈な執念に対抗する術として、証言することへの執念のほか、この世に何があるだろうか」(正義と犯罪)。これに従えば、3・11以後の日本で、猛烈な執念で実行された「福島の犯罪」に対抗する術として、単にNO(「支援を打ち切るな」など)と言うのでは足りない、「惨事便乗型政治改革」に代わる、積極的、ポジィティブな改革を言う必要がある。それが「これは犯罪であり、犯罪は正されなければならない」と証言することへの執念であり、これ以外に今の日本に何があるだろうか。この犯罪を正すこと、その最初の一歩が、原子力災害から私たちの命・健康・暮らしを守る世界最初の人権宣言である旧ソ連のチェルノブイリ法、その日本版を制定することにほかならない。

「もう一つのあべこべ」の可能性

だが、日本社会が持ちうる最悪の要素の全てを露呈した3・11以後の「全てがあべこべ」の暗黒時代にそれは可能だろうか。可能である。なぜなら、3・11以後に出現した「あべこべ」は生半可なものでなく、悪のあべこべだけでなく、政治を一握りの職業的専門家にお任せする「お任せ民主主義」から、アマチュアの市民が自ら統治する市民主導の参加型民主主義に交代する「もう1つのあべこべ」をも生み出したからである。それは《職業的専門家とアマチュアのあべこべの時代》をもたらし、3・11まで劇場の観客にすぎなかった市民が、3・11以後、みずから舞台に上り、政治、経済、科学技術、文化で発言するようになり、主役となろうとしたからである。これが市民主導で原子力災害から市民を守る立法=市民立法の基盤だ。

ただし、このあべこべは誕生したばかりで、これを育てるか枯らすかは私達市民の手にかかっている。そのためには過去に「市民立法」を実現してきた「希望の扉」を全て叩いて、扉を開け、希望の泉を汲み出し、芽をふいたばかりの私たちの取組みに注ぎ込む必要がある。だが、過去にそんな「希望の扉」は存在しただろうか。存在した。それも至るところに――明治5年、民が官を裁く行政訴訟を導入した江藤新平の偉業。1964年、それまでのお役所陳情型から、民主主義の権利を主張して市民主導で公害から命を守った三島・沼津「石油コンビナート反対」の市民運動。「公害」という言葉を日本で知っていたのは7人しかいなかった頃の1969年、世界に先駆けて、「経済の繁栄を損なわない限り、命・健康を守る」という調和条項を削除し、住民の命・健康の最優先を宣言し、翌年の「公害国会」を引き出した東京都公害防止条例の制定。1997年、ICANによる核兵器禁止条約成立のさきがけとなった、市民主導の世界初の条約「対人地雷禁止条約」の成立。今、日本を戦争に突き進める最大の防波堤となっている情報公開法が、1999年、市民主導で、日本各地で情報公開条例の積み上げの中で成立、などなど枚挙に暇がない。

70年前、スペイン内戦で敗北、荒廃したスペインの村モンドラゴンで始まった「みんなで働き、みんなで運営する」という相互扶助の協同組合による経済再建の取組みは、やがて世界金融危機の2008年に14,938人の新規雇用を創出し、スペイン第9位の企業となった。それに挑戦をした人たちは言う--モンドラゴンはユートピアではないし、自分たちも天使ではないと‥‥ただ一緒に生き残る賢明な道を探しただけだ、と。どこにも救いがなかったモンドラゴンで自らの手で協同組合を始めた神父アリスメンディアリエタは言った《今日の革命は参加という名前である》。市民の市民による市民のための市民立法「チェルノブイリ法日本版」、そのエッセンスはこの言葉に詰め込まれている。NOでは足りない。3・11で被ばくした子どもたちを救えないようでは日本はおしまいだと絶望する前に私たちにまだやれることがある。私たちはミセン(未だ生きず)の中にいる。
2018.9.22)


[1] とりわけ2011419日の文科省の学校安全基準の20倍引き上げの通知は、国内法として審議未了の(私的な団体)ICRP2007年勧告に従ったもので、法治主義を正面から踏みにじったどさくさ紛れのアクロバット技である。ひとたび法的なクーデタというルビコン川を渡った日本政府にとって、その後の安保関連法の成立など第2、第3の法的クーデタなど屁の河童である。その詳細は->こちらを参照。