2019年11月17日日曜日

【お知らせ】12月22日(日)市民立法「チェルノブイリ法日本版」学習会「なかったことにはさせない!--福島原発事故の人権侵害」(港区リーブラ)

 新しい段階に入った市民立法「チェルノブイリ法日本版」の学習会、ホップ、ステップ、ジャンプの二歩目(ステップ)のお知らせ。

2019年10月11月の市民立法「チェルノブイリ法日本版」学習会を、東京都調布市と福島県郡山市でやりました。
     調布市(10月26日。詳細->こちら)            郡山市(11月2日。詳細->こちら

 この2つの学習会は、それまでの学習会のメインテーマ、
--なぜ今、チェルノブイリ法日本版なの?
--どうやって、チェルノブイリ法日本版を実現するの?
という入り口の総論の話から、次の段階に進み、
チェルノブイリ法日本版条例の中身について、
--その条例は誰が、何のために、誰のために作るの?  
--どんな内容なの?キーワードと言われる予防原則とどんな関係があるの?  
という各論のテーマについての話を試みたものでした。

まだ暗中模索の域を出ない試みとしか言えないものですが、参加した皆さんのリアクションから、この試みがとても大切なもの、必要なものだと確信しました。

そこで、その続きを、来月12月22日(日)13時半から、東京港区の「リーブラ」1階和室広間(以下の地図等を参照)で行ないます。
10月、11月の学習会のプレゼン資料とレジメを、末尾に転載しました。
皆さんのご参加をお待ちしています。
 日時:2019年12月22日(日) 1330~ (開場13:00) 
 会場:港区立男女平等参画センター「リーブラ」公式サイト)  1階 和室大広間(以下の赤丸の部屋)

 
  〒105-0023
  東京都港区芝浦1-16-1 みなとパーク芝浦
  TEL:03-3456-4149 ->地図) 
  アクセス JR田町駅東口 徒歩5分
        都営地下鉄三田駅 A6出口 徒歩6分

 演題: 市民立法「チェルノブイリ法日本版」学習会
       チェルノブイリ法日本版条例案の中身について
      ――願い・夢をカタチにするまでのプロセス――
◆ 講師:柳原敏夫(市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会・共同代表)
◆ スケジュール
   柳原の話    13 ~15時

      質問タイム   15時~15時半

      交流会      1545分~16時半

 参加費 無料
   ただし、会場準備の都合上、参加希望の方は
090-8494-3856(岡田)までご一報くようお願いします
 主催:脱被ばく実現ネット(旧ふくしま集団疎開裁判の会)
   問い合わせ先 090-8494-3856(岡田)


◆◆ 10月・11月の学習会の資料
動画(詳細は->こちら
            柳原敏夫の話(1時間20分)。


10月のプレゼン資料(全文のPDFは->こちら) 

 
http://1am.sakura.ne.jp/Chernobyl/191026presenTyofu.pdf
10月のレジメ(PDFは->こちら
                **************

市民立法「チェルノブイリ法日本版」実現のため、世界への接近の仕方(その2)
                                                                        2019年10月26日
1、いかにして原発事故と向き合うか:知行合一が持続可能な対面を可能にする私たちは放射能を忘れたがっている、たとえ放射能災害の正しい事実()を知ったからといっても。否、その時のほうがむしろ忘れたいと思う気持が一層強まる可能性がある。それほど、放射能災害はこれまで人類が経験したことのない耐え難いほど過酷な現実を私たちに突きつけるものだから。


)例えば、
・「時計はもとには戻せない。私たちは汚染された世界に生きるしかない」(小出裕章)。
・「核反応という、天体においてのみ存在し、地上の自然の中には実質上存在しなかった自然現象を、地上で利用することの意味は‥‥深刻である。あらゆる生命にとって、放射能は地上の生命の営みの原理を撹乱する異物である。私たちの地上の世界は、生物界も含めて基本的に化学物質の結合と分解といった化学過程の範囲で成り立っている‥‥核文明は、そのような破壊の一瞬を、いつも時限爆弾のように、その胎内に宿しながら存在している。この危機は明らかにこれまでのものとまったく異質のものではないだろうか。」(高木仁三郎 1968年)(以上、ともに「終わりなき危機」より)。
・「チェルノブイリ事故は大惨事ではない、そこでは過去の経験はまったく役に立たない、チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも、人々はそのことを考えたがらない。不意打ちを食らったからです‥‥何かが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似た出来事も、体験も持たない。私たちの視力、聴力もそれについていけない。私たちの言葉(語彙)ですら役に立たない。私たちの内なる器官すべて、そのどれも不可能。チェルノブイリを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません。感覚の新しい歴史が始まったのです。」(スベトラーナ・アレクシエービッチ「チェルノブイリの祈り」31頁)。

私たちの、放射能を忘れたがる気持に打ち勝つことはもはや不可能だろうか。否、依然、可能である。
では、この忘れたい気持に打ち勝つ力は一体どこから来るか――それは、放射能災害の正しい認識と正しい救済とが一体になった時。知と行が合一した時、放射能災害のむごい現実を徹底して否定する力が生まれ、正しい救済に向かって行動できる。それが市民立法「チェルノブイリ法日本版」のアクション。

2、チェルノブイリ法とは
一応、汚染地域の住民・子どもと事故処理作業者に対し、
追加被ばく線量年間1mSvを基準に、移住・保養・医療検診等を保障。1~5mSvの地域は移住の権利が与えられ、移住先での雇用と住居を提供、引越し費用や失う財産の補償、移住を選択しなかった住民にも非汚染食料の配給、無料検診、薬の無料化、一定期間の非汚染地への「継続的保養」等を保障。

3、チェルノブイリ法を眺めるにはどんなメガネが必要か
しかし、本当のところ、これを読むだけではチェルノブイリ法とは何か分からない。

(1)、そのためには、最低3つのメガネが要る。
1つ目は、真実の光を放つメガネ。換言すれば、真実を畏れよというメガネ。
2つ目は、理念の光を放つメガネ。換言すれば、正義を愛せよというメガネ。
3つ目は、生々流転の光を放つメガネ。換言すれば、常に生成途上のものとして眺めるメガネ。

(2)、法律は文字面、字面でその意味、評価が自動的に決まるものではなく、それをどう読解するかによって初めて決まる。読解の仕方如何で如何様にも意味が変わる()。そこで、読解を導く手がかり[TY1]が必要となる。

()その典型が憲法9条。「兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたない」(文科省読本)積りで制定されたのに、いつの間に世界有数の軍隊である自衛隊が憲法9条の下でも存在。

(3)、真実の光を放つメガネ
ここでいう「真実」とはカントの「視差」()を具体化したもの。具体的には、福島県の「県民健康調査」の甲状腺検査の真実。

)「さきに、私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した。今私は自分を自分のではない外的な理性の位置において、自分の判断をその最もひそかな動機もろとも、他人の視点から考察する。
両者の考察の比較は確かに強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段である。
」(カント「視霊者の夢」)                                       

(4)、理念の光を放つメガネ
子ども脱被ばく裁判の理念――原発事故において、子どもは、無用な被ばくを1ベクレルといえども甘受すべき理由も必要もない。  
   cf. 「有用さ」を振りかざす通常運転や医療における被ばくとは違う。
          ↓
この理念のメガネから眺めると「追加被ばく線量年間1mSvを基準に」は妥協の産物以外の何物でもない。
それゆえ、この法は原発事故による被ばくから命、健康を守るため最低限のセイフティネットという位置づけ
→引き続き、「無用な被ばくをさせない」という理念に照らし、より完全なもに改正していく。

(5)、生々流転の光を放つメガネ
法律は固定的にその意味、評価が決まるものではなく、あくまでも現時点でのルールにとどまり、状況の変化に応じて、絶えず変化発展するもの(1)(2)。

1)憲法9条が典型。本来、平和は世界平和の実現抜きにはあり得ないが、この点、9条は一国平和にとどまる。そのため、常にその限界、無力さを非難される。しかし、9条を生々流転の中に置いた時、9条は世界平和に向けて最初の一歩を踏み出した「世界平和への生成途上のもの」と新たな意義が与えられる。

2)世界史の人権の歴史もまた生々流転の中にある。
しかもそれは「前進と後退のくり返し」である。

18世紀2つの市民革命中の近代憲法  19世紀近代憲法   20世紀2つの世界戦争の後の現代憲法

1991年チェルノブイリ法          2007年ICRP勧告          ?年チェルノブイリ法日本版

4、これらのメガネをかけて視えてくるチェルノブイリ法(日本版)「避難の権利」の保障を中心に制定。しかし、それだけでは不十分。何がどう不十分かも判明。
 11月のプレゼン資料(全文のPDFは->こちら) 
http://1am.sakura.ne.jp/Chernobyl/191102presenKoriyama.pdf
11月のレジメ(10月26日の調布市の学習会と同じ内容)(PDFは->こちら
  

2019年11月15日金曜日

【報告】「今でも子どもを安全な場所に避難させたい」と証言した子ども脱被ばく裁判の原告のお母さん(2019.11.15)

2014年8月29日提訴の会見で紹介された原告のお子さんの絵       

以下は、市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会のメーリングリストに投稿した文です。

   *************** 
  
2日前の11月13日、福島地裁で、子ども脱被ばく裁判の証拠調べがあり、福島市に住む原告のお母さんが証言台に立ちました。

このお母さんは当初、尋問を予定していた原告の方が体調不良のため、急遽、ピンチヒッターとして登場したのです。
しかし、実は彼女もギラン・バレー症候群が悪化し、杖なしでは歩けない身体でした。
この日の証言を聞き、そのあとの報告会での話を聞き、彼女が311からの8年間の総括の積りで、この日、証言台に立ったことを知りました。
たとえば、同居していたお母さんとの葛藤についても率直にありのままに語ってくれました(以下の第2回口頭弁論における原告本人の意見陳述参照)。
 

わたし自身は、被ばくには十分気をつけていたにもかかわらず、事故から1か月ほどたったころ、子どもたちふたりとも食欲がなくなり、鼻血を毎日のように出すようになって、目は死んだ魚のようににごっていきました。
そんなとき、東京のお医者さんがボランティアで子どもたちの健康相談をしてくださるというので、藁にもすがる気持ちで参加しました。すると、お医者さんからこう言われたのです。
「おかあさん、このままこの子たちをここに置いておいてはダメだよ。学校を休ませて、どこか空気の良いところに子どもたちをやったほうがいい」
  そこで、山梨県のボランティア団体が、長期で子どもたちを預かってくれると知り、問い合わせました。ところが、参加条件は親子同伴。でも、わたしはシングルマザーなので仕事を休むことはできません。わたしの代わりに母に付き添ってもらおうと思い、事情を話してお願いしました。
  しかし、母は被ばくについてまったく理解がないので、「福島に居たってだいじょうぶよ。みんなここで暮らしているじゃない」と一蹴され、付き添いを断られました。
  でも、子どもたちの体調は日を追って悪くなる一方。わたしは母に土下座をして、「おかあさん、どうか子どもたちを連れて行ってください」と頼みました。それで、どうにか連れ出してもらったのです。

 

この8年間がどんなにつらい日々であったか、それは一方で、311以後、時間と記憶が止まってしまい、記憶喪失のようになってしまう瞬間もあれば、他方で、たとえばはっきり日付まで口にされた子ども脱被ばく裁判を提訴した2014年8月29日のことを、まるで昨日のことのようにありありと語る瞬間があったことからも窺えました。
 

詳細は脱被ばく実現ネットのブログでまもなく公開される裁判報告会の動画でご覧いただけたらと思いますが、
普通だったら、人前でなかなか言い出せないことを彼女は、証言台でも裁判報告会の公の場でも、もう何ひとつ隠すこともなく、包み隠さず自分と家族が経験したことをありのままに話されました。その姿を見ていて、この間、彼女は死にたいと思ったほどつらい体験を何度もされてきたことがまざまざと伝わりました。
その彼女がこの8年間のふり返りの話の中で、何度も登場した人がいました。それが「中郷のデパートの4階のアパレル売り場で一緒だった先輩」のXさんでした。Xさんはこのチェルノブイリ法日本版のMLの登録者です(6年前、疎開裁判に提出したXさんの陳述書は->こちら)。

この日、彼女は我が身の全身のありったけの力を振り絞って、裁判所と傍聴の皆さんに訴えようとしてきましたが、その力の限りを出して訴えようとしたら、知らないうちに、Xさんの話を何度もしてしまったかのようでした。
・311直後、放射能のことを何も知らない自分が先輩のXさんと必死になって情報交換をしながらどうしたらよいか模索したこと、
・その後、東京方面に避難したXさんとはバラバラになってしまったこと、
・2014年8月29日の子ども脱被ばく裁判の提訴の日、Xさんと再会できたことを、本当に大切な日として彼女の中に刻まれていたことを語ってくれました。

この2014年8月29日の提訴の時に、次男の息子が自分も訴えたかったという話を2度もしてくれました。
あの日、息子さんは家の周りに積まれた黒いフレコンパックの山の絵を描いてくれ、それを提訴の会見で紹介しました。しかし、私は、息子さんが本当は自分自身の言葉で訴えたかったことまでは理解できませんでした(息子さんの絵->こちら

5年前の7月に、育てる会の正会員の岡田さんたちと原告の自宅、通学路、学校の測定をした時、この原告の彼女さんも参加しました。このときはまだ杖もなしで、歩いていました。
その後、病状が悪化し、杖なしでは歩けなくなり、次男の息子さんも起立性調節障害で学校に通えなくなりました。自身と子どもの状況は悪くなるばかりなのに、昨日のお話は信じられないほどの前向きの姿勢に満ちていました。
普通なら、この残酷な現実にうちひしがれ、諦めてその現実を受け入れてしまうのに、彼女はこの残酷な現実を決して「諦めも受け入れもしない」で、それと闘う決意を示してくれました。
この姿をみて、私は、子ども脱被ばく裁判が彼女にとって掛けがいのない場所になったことを知りました。この裁判が、理不尽な現実を受け入れることをせず、それと闘うための場であることを彼女が理解したことを知りました。
昨日、彼女は、いつ、どんな風に考えて、この裁判の原告になろうと思ったのか、その場面をまるで昨日のことのように克明に語ってくれました。それは、彼女がこの裁判の原告の話を聞いた瞬間、即決で原告になると決めた、というとても印象的な話でした。

実は、子ども脱被ばく裁判に参加したからといって、無用な被ばくを子どもたちに強要する国や自治体の理不尽な態度が簡単に変わるわけではありません。その結果、この現実の厳しさを知って、裁判に対する当初の期待が裏切られたような気持になって、この裁判から遠ざかっていった原告の人たちもいました。
しかし、彼女は、とりわけ原告のなかでも最も過酷な環境の中にいたにもかかわらず、この4年間の裁判の中で、紆余曲折を経ながらも、裁判に対する不屈の信念を大切に育ててきた人のように思いました。
それは、たとえ、裁判を起したからといって無用な被ばくを強要する理不尽な現実が簡単に変わらないとしても、そのような理不尽な現実を決して許さないという彼女自身の決意がますます揺るぎないものになっていったという意味で、実は現実がものすごく変わったのです。
この裁判の中で、彼女のような不退転の不屈の精神を持った人が育ったという意味で、この裁判に参加した中で、現実がものすごく変わったのです。

その不屈の人が、一昨日、何度も何度もXさんの話を口にしたのを聞いて、類は友を呼ぶ、彼女は不屈の心を持ったXさんと改めて共鳴したい、共感したいと思ったんだと思いました。

‥‥以上の出来事を体験して、私はチェルノブイリ法日本版の取組み・アクションもこれと変わらないと思いました。
裁判の原告になるのと同じで、市民が育てるチェルノブイリ法日本版の会に参加したからといって、無用な被ばくを子どもたちに強要する国や自治体の理不尽な態度が簡単に変わるわけではありません。
しかし、たとえ、市民立法に向けてアクションを起したからといって無用な被ばくを強要する理不尽な現実が簡単に変わらないとしても、そのような理不尽な現実を決して許さないという私たち自身の決意がますます揺るぎないものになっていくのであれば、実はそれは現実がものすごく変わったことを意味します。
だって、チェルノブイリ法日本版の取組み・アクションを起すまでは、誰もそんな不退転の不屈の精神を持っていなかったのですから。
育てる会に参加する中で、この裁判の彼女のような不退転の不屈の精神を持った人が育っていくのだったら、それはこの会に参加する中で、現実がものすごく変わったことを意味します。

この意味で、チェルノブイリ法日本版の取組み・アクションに参加すること自体が日本社会を変えるのだと思います。

最後に。

2011年のデモで語った或る人の言葉をもじって、次のように思いました。
今後に、チェルノブイリ法日本版のアクションが下火になっていくことは避けられない――と思う人がいるかもしれません。
しかし、違います。原発事故は何一つ片づいていないし、今後も容易には片づかない。むしろ、今後に、被ばく者の病状がはっきりと出てきます。つまり、われわれが忘れようとしても、また実際に忘れても、放射能は執拗に残る。それがいつまでも続きます。放射能がほかの人災とちがって恐ろしいのはそのことです。それでも、人々はおとなしく政府や自治体の言うことを聞いているでしょうか。もしそうであれば、日本人は韓国映画「ペパーミント・キャンディー」の主人公のように自滅するしかありません。

だから、私はこう信じています。
第一に、チェルノブイリ法日本版の取組み・アクションは長く続くということ、
第二に、それは原発にとどまらず、日本の社会を根本的に変える力となるということです。

くり返します。
既に皆さんがチェルノブイリ法日本版の取組み・アクションに参加したことで、ただそれだけでも、日本社会は間違いなくものすごく変わったのです。
皆さん、ねばり強く続けましょう。