2017年12月26日火曜日

【お知らせ】3月3日、東京大学「学問の自由」侵害裁判の原告柳田辰雄教授の最終講義「私の学融合と学問の自由」

2018年3月3日に東京大学「学問の自由」侵害裁判の原告柳田辰雄教授の最終講義を、以下の通り行います。
当日は、パネルディスカッション、参加者との公開討論も予定しています。
誰もが参加聴講できます。
このテーマに関心を持つ方の参加をお待ちしています。

◆◆ 柳田辰雄教授最終講義 ◆◆
題名:「私の学融合と学問の自由」
日時:3月3日(土) 午後2時~
場所:東京大学大学院経済学研究科棟 3階 第2教室
地図->http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_08_01_j.html
パネルディスカッションの発言者
・ 柳田辰雄
  ->HP


・ 平山朝治(筑波大学人文社会系教授)
 ->HP
      

・ 柳原敏夫(法律家。東京大学「学問の自由」侵害裁判の原告代理人)
 ->HP
                     





  (C)1996 Naoyuki Kato


 *************** 

学問の自由とは・・・


 教員研究者は、思想を表明することを専門職能上の業務としており、職責上思想を表明しない自由をもたない。しかも、彼らは、みずから職能遂行上の手段をもち、依頼者と直接個人的に接する他の専門職能とことなり、研究手段からきりはなされており、大学設置者に雇われることにより始めて研究手段に接近し、また役務の受け手(それは集団化されているという特色をもつ)に接することができる。教員研究者が真理と信じることを表明することによって、研究手段を奪われることを、市民的自由行使に対するしっぺ返しとして容認することは、かれらの専門職能遂行を不可能ならしめることである。 
                                           高柳信一学問の自由」より

憲法は、なぜ、表現の自由・思想信条の自由の保障のほかに、さらに学問の自由を保障したのか?・・・
 
1、現代憲法(日本国憲法等)において「学問の自由」が登場した理由 

明治憲法には 表現の自由を保障したが、「学問の自由」は保障しなかった。日本国憲法で初めて「学問の自由」の保障が登場した。なぜ、新憲法で初めて登場したのか。
 また、これはこう言い換えることができる--日本国憲法は思想および良心の自由や表現の自由など一般的な市民的自由を保障しており、本来なら、研究の自由はこれらの保障で足りる筈である。それなのになぜ、その上に「学問の自由」を保障したのか。
それは以下の通り、学問研究をめぐる研究者の環境が変化したからである。

2、学問研究をめぐる研究者の環境の変化 

研究者といえどもまず生きていかなければならない。論理的には人間としてまず生きる条件が満たされて、次に研究することができる。そこで、サラリーマンとして商店主としてまたは農民として生きる糧を得て、その余暇に、余力をもって学問研究を行う場合がある。このような研究に対して、思想および良心の自由や表現の自由などの一般的な市民的自由(以下、この意味で「市民的自由」と呼ぶ)が保障されるのは当然である。しかし、近代社会の進展の中で、研究対象がますます複雑化し、研究方法がいよいよ精緻化するにつれ、こうした余技としての研究は例外的となり、それに代わり、学問研究の主要な地位を占めたのが、余技としてではなく、生活の糧も学問研究の場も同時に得る雇用された研究者たちの職業としての研究である。彼らは、大学に代表される教育研究機関に雇用され、生活の糧を与えられながら、同時に、教育研究機関において学問研究に専念したのである(以下、この職業的研究者を「教員研究者」と呼ぶ)。

 この雇用関係の結果、本来であれば、教員研究者が教育研究機関において学問研究に従事するにあたっては、彼らに対し、教育研究機関が雇主として有する諸権能(業務命令権、懲戒権、解雇権[1]等)を行使することが認められる。しかし、学問研究とは本来、これに従事する研究者が自らの高められた専門的能力と知的誠実性をもって、ただ事実に基づき理性に導かれて、この意味において自主的にこれを行うほかないものである。そこで、もしこのような本質を有する学問研究に対し上記諸権能の行使がそのまま認められたのでは、教員研究者の教育研究機関における学問研究の自主性が損なわれるのは必至である。なぜなら、雇主は使用人である教員研究者の研究態度や研究内容が気に入らなければ、雇主の権限を用いて使用人を簡単に解雇することが出来、或いは使用人の研究内容や方法についてあれこれ指示を出すことも出来、雇主の指揮命令下にある使用人である教員研究者はこれらの措置に従わざるを得ないからである。雇主のこれらの措置の結果、結局において、教員研究者の教育研究機関における学問研究の自由は存在の余地がなくなる。

3、学問研究をめぐる研究者の新しい環境に対応した新しい人権の登場 

以上より、仕事の余技として学問研究を行うのではなく、教育研究機関に雇われて当該機関で使用人としての立場で学問研究を行うという「新しい環境」(その環境は偶然のものではなく、近代資本制社会において構造的に必然のものとして出現している)の下では、教員研究者に、単に個人として一般的な市民的自由を保障しただけでは、彼らの主要な学問研究の拠点である教育研究機関内部において学問研究の自由を保障したことにはならない。教育研究機関の内部においては、教員研究者は雇用における指揮命令の関係によって、一般的な市民的自由は既に失われているからである。

 そこで、教育研究機関の内部においても、教員研究者に既に失われた市民的自由を回復し、もって教員研究者の学問研究の自由を保障するために、新しい皮袋=新しい人権を用意する必要がある。それが「学問の自由」が登場した所以である[2]。すなわち19世紀後半以降、新しい人権として「学問の自由」が意識され、その保障が要求されるようになり、遂にその保障が実現されるに至ったのである。この意味で、教育研究機関の内部で一般的な市民的自由の回復をはかる「学問の自由」は市民的自由と同質的なもので、従ってそれは学者(教授)という身分に伴う特権ではなく、教育研究機関における真理探究という終わりのない過程ないし機能そのものを保障する「機能的自由」であり、それは学問的な対話・コミュニケーションであるからそのプロセスに参加するすべての者に保障されるものである(高柳「学問の自由」36~41頁。61~65頁)。

                                               (原告準備書面(8)

本件事件:国際政治学か国際法専攻の研究者を採用するための教授人事において発生した3つの違法行為とは・・・

※ 予備知識:東大柏キャンパス新領域創成科学研究科の教員人事手続の流れ

①.本来、教授人事の具体的な教授候補者の募集が進行している場合、発議した専攻の基幹専攻会議で応募者の中から候補者を1名決定します。
 しかし、本件では、教授人事の具体的な教授候補者の募集が進行しているさなかに、何らの手続も採らずに、突如、この教授人事が「中断」されました。このような事態の発生はおよそ考えられず、これを禁止するルールすら存在しないほど異常な出来事です。

②.本来、どの専門分野の教授を採用するか、一度決定された分野をその後、都合により変更する場合には、その教授人事を学術経営委員会に発議(提案)した専攻の基幹専攻会議であらためて討議・決定する必要があるというルール(申合せの注1)があります。
 しかし、本件では、このルールを無視して、発議した専攻の基幹専攻会議の討議・決定を経ないで、変更された新分野の教授人事が学術経営委員会に発議(提案)されました。

③.本来、学術経営委員会に発議(提案)された分野変更については、学術経営委員会は分野選定委員会を設置し、分野選定委員会は会議を開催し、そこで審議・決定するルール申合せ)があります。
  しかし、本件では、分野選定委員会の開催・審議・決定という手続を取らずに、その手続があったかのように仮装して、分野変更が決定されました。
 さらにこの仮装に関して、公務員は職務に関して虚偽の内容の文書を作成すると虚偽公文書作成罪となりますが(刑法156条)、本件では、実際は開催されなかった、分野選定委員会が開催され、審議の結果、全員一致の承認による決定があったとする虚偽の内容の報告書が作成され、学術経営委員会に提出されました。この報告書の作成は刑法の虚偽公文書作成罪となります。

以上の詳細は->原告準備書面(6)


 関連記事
福島原発事故後に専門家・研究者はなぜ沈黙の中にいるのか:それは学問の自由の侵害と繋がっている(2017.12.23) 

努力しない限り絶望できない:人権侵害裁判を起こし、最終局面で「人権侵害は終わってる、彼らは自ら無意識に人権を放棄しているからだ」と悟った男(2017.12.10)

2017年12月24日日曜日

福島原発事故後に専門家・研究者はなぜ隠れキリシタンみたいに沈黙しているのか?それは学問の自由の侵害と繋がっている(2017.12.23)

本日、東京大学「学問の自由」侵害事件の解説用の動画を作成し、アップしました。

その中で、私がこの事件に関心を抱いた動機をこう述べました。

私は、2011年3月11日までは、「学問の自由」に大きな関を持たなかった。しかし福島原発事故の発生後の日本社会の歪みはそれ以前とは断絶しているほど酷いものです。そうした歪みに最も敏感なのが大学の先生を代表とする知識人です。だから、大学の先生たちから色んな声があがるのではないかと思っていました。しかし、現実には大学の先生たちから殆ど声はあがらず、まるで福島原発事故はなかったかのように沈黙したままでした。思わず、今の大学の先生の正体は隠れキリシタンかと思いました。大学の先生が隠れキリシタンなのは、彼らに実際上、大学で表現の自由も学問の自由もないからではないかと考えるようになった。大学に学問の自由がないことが、311後の日本の歪みを象徴する出来事のように思えてきた。これが私が、東大「学問の自由侵害」事件に関心を抱く理由です。

今月10日、この歪みを告発する番組
NHKスペシャル「追跡 東大研究不正
~ゆらぐ科学立国ニッポン~」が放送され、番組の最後で東大の堀昌教授(薬学系)がこう言いました。

世の中的な価値判断にあわせる形で、自分の研究の方向性すら変えていかなければならない、資金を得るために
そういう状況はまさに本末転倒になっていて、
そういう状況は非常に大きな問題を感じています。


今、東大を含め日本で進行している研究不正の根本が、金銭による学問の自由の支配、研究者の自由の喪失にあることが示されました。これも、現代における学問の自由の侵害の典型です。

問題は、こうした人事の不正、研究不正の最大の被害者は誰かです。それは、 研究の成果に基づいて作られた現代社会の中で生きざるを得ない私たち一般市民にほかなりません。それは、400年前、地動説を唱え迫害されたガリレオと同じです。ローマカソリック教会による迫害により最大の被害を被ったのは、天動説のもとで、天動説に基づいた封建的なピラミッド型秩序の中で不当な扱いを受けていた一般民衆でした。ガリレオの地動説は新時代の到来を告げる真実として、一般民衆を解放するものだったからです。
この真実は今も変わりません。学問の自由が奪われるというのは、私たちを解放する、新時代を告げる真実が奪われることになるからです。私たちは、私たちを解放する、新時代を告げる真実を取り戻すために、学問の自由を取り戻す必要があります。

【第1部】東大 学問の自由侵害事件

【第2部・第3部】東大 学問の自由侵害事件

 参考資料
前提となる資料:東大柏キャンパス新領域の組織体制->こちら。教員人事の流れは->こちら
今回の裁判の決め手となった証拠、上記の動画でも取り上げられている重要な資料を2つ紹介します。

1、教員人事で、教員の「分野及びポスト」を変更する場合の手続を定めたルール
    そのルールには、発議した専攻で、再度、審議・決定することとされていることです(以下の注1)。
   今回の教授人事では、このルールが無視されました。
   その上、看過できないことは、今回の裁判の中で、東大がこのルールが存在することを知りながら、すっとぼけていたことです。


 2、実際には開催されなかった2009年11月25日の分野選定委員会が開催され、分野の変更について討議され、柳田氏も含め全員一致で承認したとする虚偽の内容の報告書(これが学術経営委員会に提出され、分野選定委員会で分野の変更が承認されたという報告が承認された)。
  


 関連記事
努力しない限り絶望できない:人権侵害裁判を起こし、最終局面で「人権侵害は終わってる、彼らは自ら無意識に人権を放棄しているからだ」と悟った男(2017.12.10)

東大「学問の自由」侵害裁判の公式ブログ ->こちら

2017年12月20日水曜日

追悼早坂暁:早坂は生きている(2017.12.20)

                                          元アキラ法律事務所 柳原敏夫

故人にたいそう失礼なことだが、18日の朝刊で早坂暁の訃報に接したとき、口をついたのは「えっ、彼、まだ生きてたの?」だった。私の中で、彼はとっくに亡くなっていた。この間、ずっと彼の話題を耳にしていなかったし、何よりも病気ばかりしているイメージがあったから。

早坂暁の名を知ったのは、 1981年9月にNHKの、若山富三郎演じる弁護士シリーズ「事件」を観た時だった。被告人のケーシー高峰の演技に息を飲んだ。その翌年の「事件」も観た。被告人の松田優作の演技にも、これがあの松田優作かと我が目を疑うほど目を見張った。そのドラマのあと、私はかねてからの志望だった裁判官になるのを諦め、デモシカ弁護士になった。やることがなく、昼休みと称して、何時間も三四郎池に寝そべる毎日だった。或る時、NHKの「事件」の法律監修を日本弁護士会連合が担当している話を聞き、監修担当を申し出たが、早坂暁がとうとう続編を書かなかったため、実現しなかった。そのあと、私はこのあこぎな業界に嫌気が差し、足を洗おうと遺書を書き、準備を進めていたところ、降って沸いたように、NHKの仕事が舞い込んだ。大河ドラマの著作権裁判だった。

フラフラと仕事に戻り、ドラマの著作権裁判の準備をしたが、シナリオが分からないとどうにもならないと知り、シナリオ教室に通い、担任のブルドックのような石堂淑朗氏から早坂暁の話を聞かせてもらった。
「早坂はメチャクチャ優秀です。しかし、演出家がアホたれです」
シナリオの本も片っ端から読んだ。演劇理論とかこの業界特有の面倒くさい作法があって、立ち往生しているときに、早坂暁のシナリオ「夢千代日記」を読み、えっ、これがシナリオかと思った。シナリオ作法を無視した、好き放題のスタイルにビックリした。19世紀初頭の長崎を舞台にしたドラマ「びいどろで候」の解説--鎖国中の日本と国交があったオランダの外交官は、本国がナポレオンに征服され消滅した時、自分たちの身分を江戸幕府にどうごまかしたか、その後、ナポレオンが失脚し、彼の処遇に困った欧州列強がオランダ経由で日本に島流しを決めた結果、この贈り物に大騒ぎとなる江戸幕府・・・を読んだとき、えっ、なんて面白いストーリーだろうと思った。それが早坂暁の脚本だった。ドラマ業界の人たちの話の本を読んだときも、早坂暁の話()はずば抜けていた。彼自身も「業者じゃない。同じことをやっているとつまらなくなる。アマチュアです」と言った。しかし、彼は謙遜していたのだ。彼は、「吾輩は猫である」を書き、当時の業界(文壇)の人たちからプロとして不純だとアマチュア扱いされていた夏目漱石に似ていた。夏目漱石と同様、彼こそ、業界の人たちが失ったドラマの原点に還り、そこから作品を書いたのだ。一方で彼は自分が怠け者であることを深く自覚し、怠け者でも書くべきこと、書きたいことを書いた。だから、それは自分が書いたのではないことを分かっていた。彼に作品を書かせたのは「僕を産んでくれたおっ母さんが書かしている」とも、原発投下直後の広島で聞いた「赤ン坊の泣き声」だった。だから、漱石と同様、死ぬまで書き続けることができた。

1990年11月、この大河ドラマの著作権裁判の天王山とも言うべきプロデューサーの証人尋問があり、私はこれまでの仕事の総決算にする積り取り組み、幸い結果は上々、回りは大喜びだった。しかし、私は、これがうまくいったらどんなに嬉しいだろという当初の予想に反し、回りの興奮に反比例しどんどん醒めていった。私は「これは違う、ここには自分が求めている宝はない」とこのとき自分に訪れた感情を受け入れた。40歳の誕生日に事務所を店じまいして、著作権の仕事とおさらばし、数学のニセ学生になった。それと共に早坂暁とも迂遠になった。しかし、実は知らずして、この後こそ彼の生き方に最も影響を受けていたのだ。

それは2011年3月の福島原発事故の発生だった。私は、その直前、自分のライフワークの遺伝子組み換え関連の裁判の民衆法廷を開廷する準備中だった。しかし、原発事故の発生がすべてを変えてしまった。自分のライフワークが示されたからだ。とはいえ、このライフワークは正直なところ、自分の手に余るのではないか、とても自分の背に背負い切れることではないのではないかと思えた。そのとき、自分の前に現われたのは旧約聖書のモーセ、エレミアたちだった。彼らは神から命令を受けたとき、それに応える力も意思もないとして懊悩した人たちだった。或いは自分の愛する者のため途方もない困難に立ち向かう韓国ドラマ「エデンの東」「カインとアベル」、韓国映画「ブラザーフッド」だった。そして、最後に現われたのが早坂暁だった。

3日前、早坂暁の逝去を知ったとき、私は、チェルノブイリ法日本版を市民の手で制定するというプロジェクトを本格的にスタートさせる準備中だった。彼の訃報から、自分がこれまで、いかに彼から深く影響を受けてきたか、「ニュー・シネマ・パラダイス」のトトのように思い出した。そして、このプロジェクトは早坂暁からの贈り物だと分かった。それは同時に、福島原発事故直後の汚染地の中にいた赤ン坊の泣き声からの贈り物だった。
赤ン坊が生きているように、早坂暁は今も生きている。


 ()「テレビドラマ紳士録」(映人社)1982年初版


2017年12月19日火曜日

【お知らせ】2月25日、光塾講演会(後半)「さよなら孤独、気立てのよい喜怒哀楽の法、チェルノブイリ法日本版制定への道」

※ 講演会のチラシができました。-> 表面  裏面


2月25日(日)13:30から、渋谷の光塾で、以下の2人の講演会を行います。
皆さんの参加をお待ちします。

前半
◆◆「臨床医が語る、原発事故からの7年 ―子どもの甲状腺がんは?健康被害は?」◆◆
 
 牛山元美さん(さがみ生協病院 内科部長 3.11甲状腺がん子ども基金 顧問)
 
 
 
 ●牛山さんからのメッセージ:
原発事故後、子どもが通う神奈川県の小学校の放射能汚染の現実を知ったことから、被ばくについての勉強を始めました。福島の方々の声を聴き、子ども・若年者の甲状腺がんにまつわるさまざまな問題を知る中で、放射能汚染や被ばくによる健康障害を軽視する奇妙な社会に気づきました。臨床医として、当然ながら健康や命を大切にする社会を願い、そのために、私が入手・理解できた情報をたくさんの方にお伝えしたいと思っています。

 後半
◆◆「さよなら孤独、気立てのよい喜怒哀楽の法、チェルノブイリ法日本版制定への道」 ◆◆
  
 ●柳原敏夫(ふくしま集団疎開裁判 元弁護団長)

  水の連帯(2016年8月カナダ・モントリオールで開催された「世界社会フォーラム」に集まった世界市民)

柳原からのメッセージ:
 福島原発事故は二度発生しました。一度目は原発の中で偶然と技術の未熟さから、二度目は私達の社会の中で確信と世論操作によって。いま私達を最も苦しめているのは二度目の事故です。その結果、汚染地の子供達は「見えない収容所」に閉じ込められました。これは国際法に照らし「人道に対する罪」に該当する、戦後日本史上最悪の人権侵害です。これをただすことは先に死んでいく大人の責任です。それが12月16日に急逝した早坂暁の遺言「水でつながり、気立てのよい喜怒哀楽の法、チェルノブイリ法日本版を地上に残したい」()です。

 日時:2018年2月25日(日) 13:30~ (開場13:00) 
 会場:光塾 ->(公式サイト)   東京都渋谷区渋谷3-27-15 光和ビル地下1階 (JR渋谷駅新南口すぐ マクドナルド向かい->地図)    TEL 090-8494-3856(岡田)
 資料代:500円
 主催:脱被ばく実現ネット(旧ふくしま集団疎開裁判の会)


)当時海軍兵学校の生徒だった15歳の早坂暁は、原発投下直後に広島入りをし、「地球の終末の光景、世界の臨終の景色」を見た。のちに当時の生徒が集まると、最後は決まってあの光景の話になった。

「おい、あの時、赤ン坊が泣いていなかったか」
「赤ん坊?」
「確かに、聞こえたんだ。赤ン坊の泣き声がしていた」
「まさか‥‥」
あの雨の降る廃墟の中で、赤ン坊が棄てられて泣いている光景は、たまらない。
「いや、棄てられた赤ン坊じゃない。母親が抱いている赤ん坊だ。あの廃墟の中に住んでいた人たちだって、いたんだろう」
「うん、そうかも知れんな」
「確かに、赤ン坊の泣き声がした。ぼくはこの耳で聞いたんだよ」
「‥‥そう言えば、 おれも聞いたような気がする」
38年前の記憶はダリの時計のように溶けてしまっている。しかし、私たちは、赤ン坊の泣き声を懸命に思い出そうとしていた。あの光景の中で、もし赤ン坊の泣き声が聞こえていたら--救われる。
「いや、おれも確かに聞いた。忘れてしまっていたが、今思い出した」
暗い思いにとりつかれると言っていた医者が一番強く主張しはじめた。
 「‥‥ああ、赤ン坊が泣いていたな」

 あの時の、あの赤ン坊が夢千代である。
                                (「夢千代日記」のあとがき)

 それから56年後に
発生した福島原発事故の時にも、廃墟の中で赤ン坊の泣き声がした。しかし、人々は目の前の未曾有の出来事に翻弄され、目を奪われ、赤ン坊の泣き声のことを忘れてしまった。そして、暗い思いにとりつかれた。しかし、赤ン坊は廃墟の中で棄てられてはいなかった。お母さんがしっかり抱いていた。だから、耳をすませば、赤ン坊の声が今も聞こえて来るはずだ。
もし耳をすました人が、
「確かに、赤ン坊の泣き声がした。ぼくはこの耳で聞いたんだよ」
と言ったら、ほかの人たちもきっと赤ン坊の泣き声を懸命に思い出そうとするだろう。あの光景の中で、もし赤ン坊の泣き声が聞こえていたら--救われる。

 あの時の、あの赤ン坊がチェルノブイリ法日本版である。それが早坂暁が大人に残した遺言です。 


同時に、早坂暁は、どうしたら私たち大人が、あの赤ン坊の泣き声に応えることができるようになるのか、これを考え続け、次のようなビジョンに到達しました。それが、
気立てのよい人間たちによる水の連帯で、気立てのよい法律を作ること。

これについてズケズケ語ったのが、1990年の岩波ブックレット「恐ろしい時代の幕あけ」です。


◎気立てのいい人
21世紀になったときにいちばん貴重で、尊重される人は誰か。それは、気立てのいい人です。気立てのいい人が宝になります。頭のいいのはいっぱいいます。そんなんもはコンピュータが代わりをしてくれます。ぜったいにこれから大事になってくるのは、(コンピュータには代わりができない)気立てのいい人です。人間関係をうまく処理できて、相手のことを考えて優しい人。ですから、今こそ気立て大学というのがあってもいいわけです。
では、気立てがいいとはどういうことか。平たく、具体的にいいますと、情けですね。情けがわかることです。情けなんていうと非常に古くさい言葉ですが、、相手側の視点がわかるということです。切り返しの視点を持っているということです。  
向こうから見たらどうみえるのか。映像的にいえば、二台のカメラを持っているのが気立てだと思います。つまり殺される側のゴキブリから見た目をイメージできる人が、気立てのいい人です。
(・・・ゴキブリから見た目をイメージできる人なんて、ウーマンラッシュアワーの漫才みたいではないか)
どうかゴキブリから見た目をいぢど想像してほしいのです。相手側のショットがある、向こう側のショットがあるというのが気立てのいい人です。気立ての悪い人はこちら側のショットだけですから、相手の立場とか、そういうのはわからない。相手の痛みが分からない。自分のエゴだけを押している。そういうのが気立ての悪い人だとぼくは思います。》 
(・・・経済復興のショットだけしか言わない人たちは気立ての悪い人たち、その通り!)
向こうのショットがイメージできる。実はそれがほんとに頭のいいことなのですが、いまの頭のよさというのは、記憶や試験の技術であると、そこへ子どもたちを追いこんでいます。
いい大学を出て、いい暮らしを保障されなさいと、親は学校と共謀して子どもたちを気立ての悪い子にしていっているのです。

 ◎水でつながる
これからは血でつながらないほうがいいと思う。血でつながった形は崩壊しつつあるわけですから、今度は水でつながったほうがいい。他人でつながったほうがいいと思います。
・・・でも、みなさん、ぼくなどもそう思うのですが、いま生活しているなかで、血でつながる人たちとは年に数回会うか会わないでかでしょう。大半は他人と暮らしているのです。友だち、仲間、つまり水の関係のひとたちのほうがはるかに濃いのです。ですから、血でつながるということをやめて、もうちょっと水でつながることを大事にしたらいいのではないかと思います。
いや、水っぽいほうがいいのです。血でつながると、恨みとか、愛憎が強く出てきますから、水で繋がったほうが淡白で、さっぱりしていて、いいです。あとくされもないし、要求することも、もたれかかりも少なくなります。
21世紀は、どれだけ上手に水でつながることができるかどうかによって、悲惨な人とうまくいく人とに分かれてくるでしょう。血に執着する人は21世紀でものすごく悲惨になると思います。水の連帯のことを考える人は、わりと21世紀もうまくいくのではないでしょうか。》 
ですから、これからぼくも水ドラマが書きたいです。考えてみるとぼくには水ドラマが多いようです。あまり血でつながるホームドラマは1本しか書いたことがありません。「夢千代日記」なんてぜんぶ水の関係でしょう。ぜんぶ他人同士が集まって暮らしている。ああいうのを水ドラマというのです。
 (・・・水ドラマの古典が「東京物語」だとすれば、近時の傑作は「家族ゲーム
考えてみると、血でつながるから民族が生じ国ができて、国境をつくり、戦争まで起きてしまうわけでしょう。あれが水でつながっていたら戦争は起きない。民族なんていわないほうがいい。人間というだけでいい。
そういうふうに、ちょっと組み合わせを変えていけば、社会は一変するし、もちろん、そうすると学校なども一変する。偏差値などまったく消えてしまいます。早くそういう時代がくればいと思います。
でも、こんなことは実は、親の決心ですぐ決まるのです。親の決心で世の中の眺めは一変するのです。
(・・・そうだ!旧ソ連のチェルノブイリ法の制定も大人の決心次第で、あっという間に実現した。それは、ものすごく遠くて、ありえないほど近いもの)。 

 ◎気立てのよい、喜怒哀楽の法、チェルノブイリ法日本版
では、早坂暁にとって「 気立てのよい、喜怒哀楽の法」とは何でしょうか。
とはいっても、「気立てのいい人」のイメージを彼の代表作「夢千代日記」の夢千代から連想するのは早計です。一方で、彼は、《大学時代に学生運動にかかわり公安当局からマークされ浅草に潜伏中、銭湯で知り合い、何度もプライベート旅行に行くなど親友となった》渥美清に無条件の共感、根本的な同一性を感じる人です。平賀源内が難事件を解決してゆく痛快時代劇「天下御免」、弱い者の恨みを晴らすプロの殺し屋を描いた「必殺からくり人」で本領を発揮した人です。
は、「気立てのいい人」の中に哀だけではなく、怒り、楽しみ、喜びの人間の感情の全てを見出しているのです。
だから、「 気立てのよい法律」とは、人間の喜怒哀楽を全てフォローした法律です。だから、それは、
:命が大切にされることにまさる喜びはない。
:原発を推進してきた国家は原発事故と事故に苦しむ子ども、人々に対し、無条件でこれを贖う責任がある。
:放射能汚染による故郷喪失は換え難い哀しみである。だから、避難者には、避難先で故郷回復権が認められなければならない。
:身体だけでなく、心も楽しみを維持し、大切にされてこそ命がまっとうされる。

「気立てのいい人」が喜怒哀楽を備えた人間であるように、「気立てのいい法律」とは、これらの喜怒哀楽を備えた法律のことである。それがチェルノブイリ法日本版です(そのモデルが->チェルノブイリ法日本版・伊勢市条例モデル)。

これが、私にプレゼントされた早坂暁の遺言です。

2017年12月18日月曜日

【お知らせ】2月22日、ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)アドボカシーカフェ第51回「放射能災害から命,健康,くらしを守る――「チェルノブイリ法日本版」を市民立法で」

 ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)主催のアドボカシーカフェ第51回(第1回は2011年7月『原発事故と子どもたち』発言者中手聖一さん)
「放射能災害から命,健康,くらしを守る――「チェルノブイリ法日本版」を市民立法で」
が、来年2月22日、以下の通り開催されます。 
皆さんの参加をお待ちします。
                        クリックで拡大


 ***************

 福島原発事故の1ヶ月後、文科省はそれまで 1mSv としていた公衆被ばく限度線量を福島県だけ 20mSv に引 き上げる通知をし、今なおその正当な根拠が示されないままになっています。福島の子どもたちは“見えない放射線”にさらされ、閉じ込められているといえます。これは国際法に照らし「人道に対する罪」に該当する人権侵害であり、児童虐待との受け止め方もあります。これを正すため、福島の子ども14人が2011年6月、「安全な場所で教育を受けさせて!」と裁判所に訴えました(ふくしま集団疎開裁判)。しかし13年4月、仙台高裁は判決で「福島の子どもは危ない。避難するしか手段はない」と認めながらも、「危ないと思った子どもは自分で逃げればよい。被告(郡山市)に避難の責任はない」と訴えを退けました。人権救済の道を閉ざした裁判所に代わり、社会の責任として子どもたちを救済する法制度「チェルノブイリ法日本版」を市民の力で制定する運動を立ち上げ、いま原発の再稼動が始まった日本各地の自治体で条例制定を積み上げようとしています。この市民立法のアクションにみなさんはどう関わりますか。登壇者と対話し一緒に考えてみませんか。 

●登壇:
 ○柳原敏夫さん:
 法律家。専門は知財(著作権->HP「著作権その可能性の中心」)。20世紀末、知財が知罪に変貌したのを受け、命の危機をもたらすバイオ裁判(->HP「禁断の科学裁判」)に転向。3.11まで原発に無知だった無恥を知り、命を救うふくしま集団疎開裁判(->HP)に再転向。以後、脱被ばく問題に取り組む。昨年、2人の子は都内から西へ移住し、現在、妻、母(95歳)、犬(9歳)の4人暮らし。
  
 ○崎山比早子さん:
 医学博士。千葉大学医学部大学院卒。元マサチューセッツ工科大学研究員、元放射線医学総合研究所主任研究官、元国会事故調査員会委員。高木学校、原子力教育を考える会のメンバー、3・11甲状腺がん子ども基金代表理事。

 ○長谷川克己さん:
 福島原発事故当時、福島県郡山市に在住。原発事故の5ヵ月後に妊娠中の妻と5歳の長男を連れて静岡県富士宮市に自主的に避難。避難後、一念発起し起業。平成24年に高齢者のデイサービスセンターうつくしくらぶ、27年に障害児の放課後等デイサービスうつくしくらぶを開設。傍ら、避難当事者として市民運動に参加。


●日時:2018年2月22日(木) 18:30~21:00 (開場18:00) 
●会場:文京シビックセンター 4階  シルバーホール
  東京都文京区春日1-16-21 (丸ノ内線・後楽園駅1分、三田線/大江戸線・春日駅1分) 
●参加費:一般1,000円/学生500円  当日受付にてお支払いください。

●ご案内ページ:http://socialjustice.jp/p/20180222/

●お申し込みページ:https://socialjustice.jp/20180222.html
          事前にお申し込みください。

●主催・お問い合わせ先: 
認定NPO法人まちぽっと ソーシャル・ジャスティス基金(SJF)
〒160-0021 新宿区歌舞伎町2-19-13 ASKビル5F 
メール:  info@socialjustice.jp
電話: 03-5941-7948     FAX: 03-3200-9250
ホームページ: http://www.socialjustice.jp/
Twitter: https://twitter.com/socialjusticef 
Facebook: https://www.facebook.com/socialjusticefundjp 
 
 *************************************
 
以下、チェルノブイリ法日本版制定の市民運動についての基本情報です。

チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか(2017.5)

日本からのメッセージ(2017.6)

中間報告:【チェルノブイリ法日本版】伊勢市条例(柳原案)

【チェルノブイリ法日本版】伊勢市条例案(柳原案)の解説.

なぜ今、チェルノブイリ法日本版条例の制定なのか--チェルノブイリ法日本版その可能性の中心--

2017年12月11日月曜日

努力しない限り絶望できない:人権侵害裁判を起こし、最終局面で「人権侵害は終わってる、彼らは自ら無意識に人権を放棄しているからだ」と悟った男(2017.12.10)

 2日前に、ひとつの裁判の最終の書面を完成、提出しました-->東京大学の不正な教授人事による学問の自由侵害事件の最新報告(2017.12.8)

この裁判の原告は前回期日で、彼の本人尋問が実施され、「東京大学の不正な教授人事」の真実について思いの丈を吐いた、もうこれ以上言うことはないという感じでした。

しかし、それから2ヵ月後、彼は突然
「これが言いたかった。これで、なんで自分がこの裁判を起こしたのか、その訳が初めて分かった」と言い出し、変身を遂げました。
それまで、彼はブスブスと大いなる不満を抱きながら、その正体が掴めず、霧の中で夢を見ているようだったのが、目からウロコで、明確な認識と確信を持つコペルニクス的転回を遂げたのです。

何が彼を変身させたのか、以下、その変身の顛末です。

前回までの裁判で、あと1つ論点が残っていました。それが「東京大学の不正な教授人事」の結果、原告の学問の自由がどのようにして侵害されたのかを解明することでした。とはいえ、既に数回、これについて主張済みなので、正直、今さら屋上屋を重ねるだけと乗り気がしない気分でした。

とはいえ、唯一、抽象的な疑問が未解決のままだったので、その小さな穴をふさぐために文献を漁っているうちに、思いがけない展開となり、今まで何も議論していなかったではないかと思えるくらい、根本的にやり直しの議論を展開する羽目となりました。

その穴とは次のことを問うたのです--憲法には学問の自由を保障すると書いてあるが、ではいったい、現実にどのような社会的条件のもとで、この学問の自由を問題にしているのか。そして、その社会的条件のもとで、いかなる社会的形態を取ることによって、学問の自由が実現されるのか、これを具体的に明らかにすることでした。

ところが、この素朴な問いに正面から答えている憲法の文献は意外にないのです。しかし、幸いなことに、学問の自由についてはそれが見つかりました。高柳信一「学問の自由」。

少し長くなるのを承知で、さわりの部分だけ紹介すると、

1、現代憲法(日本国憲法等)において「学問の自由」が登場した理由 

明治憲法には 表現の自由を保障したが、「学問の自由」は保障しなかった。日本国憲法で初めて「学問の自由」の保障が登場した。なぜ、新憲法で初めて登場したのか。
 また、これはこう言い換えることができる--日本国憲法は思想および良心の自由や表現の自由など一般的な市民的自由を保障しており、本来なら、研究の自由はこれらの保障で足りる筈である。それなのになぜ、その上に「学問の自由」を保障したのか。
それは以下の通り、学問研究をめぐる研究者の環境が変化したからである。

2、学問研究をめぐる研究者の環境の変化 

研究者といえどもまず生きていかなければならない。論理的には人間としてまず生きる条件が満たされて、次に研究することができる。そこで、サラリーマンとして商店主としてまたは農民として生きる糧を得て、その余暇に、余力をもって学問研究を行う場合がある。このような研究に対して、思想および良心の自由や表現の自由などの一般的な市民的自由(以下、この意味で「市民的自由」と呼ぶ)が保障されるのは当然である。しかし、近代社会の進展の中で、研究対象がますます複雑化し、研究方法がいよいよ精緻化するにつれ、こうした余技としての研究は例外的となり、それに代わり、学問研究の主要な地位を占めたのが、余技としてではなく、生活の糧も学問研究の場も同時に得る雇用された研究者たちの職業としての研究である。彼らは、大学に代表される教育研究機関に雇用され、生活の糧を与えられながら、同時に、教育研究機関において学問研究に専念したのである(以下、この職業的研究者を「教員研究者」と呼ぶ)。

 この雇用関係の結果、本来であれば、教員研究者が教育研究機関において学問研究に従事するにあたっては、彼らに対し、教育研究機関が雇主として有する諸権能(業務命令権、懲戒権、解雇権[1]等)を行使することが認められる。しかし、学問研究とは本来、これに従事する研究者が自らの高められた専門的能力と知的誠実性をもって、ただ事実に基づき理性に導かれて、この意味において自主的にこれを行うほかないものである。そこで、もしこのような本質を有する学問研究に対し上記諸権能の行使がそのまま認められたのでは、教員研究者の教育研究機関における学問研究の自主性が損なわれるのは必至である。なぜなら、雇主は使用人である教員研究者の研究態度や研究内容が気に入らなければ、雇主の権限を用いて使用人を簡単に解雇することが出来、或いは使用人の研究内容や方法についてあれこれ指示を出すことも出来、雇主の指揮命令下にある使用人である教員研究者はこれらの措置に従わざるを得ないからである。雇主のこれらの措置の結果、結局において、教員研究者の教育研究機関における学問研究の自由は存在の余地がなくなる。

3、学問研究をめぐる研究者の新しい環境に対応した新しい人権の登場 

以上より、仕事の余技として学問研究を行うのではなく、教育研究機関に雇われて当該機関で使用人としての立場で学問研究を行うという「新しい環境」(その環境は偶然のものではなく、近代資本制社会において構造的に必然のものとして出現している)の下では、教員研究者に、単に個人として一般的な市民的自由を保障しただけでは、彼らの主要な学問研究の拠点である教育研究機関内部において学問研究の自由を保障したことにはならない。教育研究機関の内部においては、教員研究者は雇用における指揮命令の関係によって、一般的な市民的自由は既に失われているからである。

 そこで、教育研究機関の内部においても、教員研究者に既に失われた市民的自由を回復し、もって教員研究者の学問研究の自由を保障するために、新しい皮袋=新しい人権を用意する必要がある。それが「学問の自由」が登場した所以である[2]。すなわち19世紀後半以降、新しい人権として「学問の自由」が意識され、その保障が要求されるようになり、遂にその保障が実現されるに至ったのである。この意味で、教育研究機関の内部で一般的な市民的自由の回復をはかる「学問の自由」は市民的自由と同質的なもので、従ってそれは学者(教授)という身分に伴う特権ではなく、教育研究機関における真理探究という終わりのない過程ないし機能そのものを保障する「機能的自由」であり、それは学問的な対話・コミュニケーションであるからそのプロセスに参加するすべての者に保障されるものである(高柳「学問の自由」36~41頁。61~65頁)。

                                       (以上、原告準備書面(8)

 私たちが置かれている学問研究をめぐる社会的条件とは一言で言って「研究手段から切り離されていた研究者が、雇用契約を締結して、研究手段を保有する研究教育機関の内部で学問研究を行う」ことです。この社会的条件のもとでは、教育研究機関が雇主として有する諸権能(業務命令権、懲戒権、解雇権等)を行使することにより、学問の自由は有名無実化する。つまり、思想および良心の自由や表現の自由などの一般的な市民的自由ではこの社会的条件のもとでは学問の自由は死滅する。だから、新しい皮袋を用意して、「学問の自由」を保障する必要があったのです。

高柳のこの指摘を読み、とりわけ以下の記述に対し、原告の彼は感動を抑え切れなかったそうです。

教員研究者は、思想を表明することを専門職能上の業務としており、職責上思想を表明しない自由をもたない。しかも、彼らは、みずから職能遂行上の手段をもち、依頼者と直接個人的に接する他の専門職能とことなり、研究手段からきりはなされており、大学設置者に雇われることにより始めて研究手段に接近し、また役務の受け手(それは集団化されているという特色をもつ)に接することができる。教員研究者が真理と信じることを表明することによって、研究手段を奪われることを、市民的自由行使に対するしっぺ返しとして容認することは、かれらの専門職能遂行を不可能ならしめることである。》

原告の彼は、2009年の東京大学の不正な教授人事に対し、当時からずっと、直感的にこれが学問の自由の侵害だと確信して疑わなかったけれど、なぜ、これが学問の自由の侵害なのか、その根拠を明確には理解していなかった。しかし、先日、高柳理論を読み、自分の学問の自由がいかにして侵害されたのか、さながら高柳から次の呟きが発せられるかのように、その根拠を全幅の確信をもって理解したのです。
「きみたちはいま、実にひどい環境で真理探究をしていますよ!」

と同時に、自分の周りの研究者が、自分と同様、このひどい研究環境の中に置かれていて、事実上、己の信ずる真理探究の自由が阻害され、妨害されているにも関わらず、これを「学問の自由の侵害だ」と声を上げることもしない現状を、
「彼らは人権侵害の前に、自ら学問の自由を無意識のうちに放棄しているか、返上している。だから、いくら侵害されても侵害と思わなくなっている。彼らはいまや絶望すらしなくなった」
と、苦々しい調子で吐きました。

これに対し、彼は絶望した、というより絶望できた。
それが可能だったのは、2009年の不正な教授人事以来、2回、裁判を起こして、真実と正義とは何かを求め続けてきたからです。その思考の努力をしなかったら、彼もまた思考停止したほかの研究者と同様、絶望もできなかったはずです。

そして、彼が思考の努力の末、絶望の中で掴み取った「学問の自由の社会的条件とそれが保障されるために必要な社会的形態」という認識は、彼の人生にとって転機となるような重要なものでした。事実、彼はこの絶望のあと、ものすごく元気になったからです。

昨夏、カナダ・モントリオールで開かれた世界社会フォーラムに参加した福島の自主避難者のお母さんは、このフォーラムで人生の転機となるような体験をしたと帰国後、ことあるたびに語ってくれました。それは、世界中から集まった参加者からこう言われたというのです--まず、あなたが声をあげるのよ。そしたら、私たちも出来る限り応援するから、と。

福島原発事故のあと、被害者の人たちは人間としてまっとうな救済を受けていない。これは紛れもない人権侵害ではないか--この過酷な状況を正面から認識し、これを声にあげること。それがたとえどんなに絶望を伴うほどの苦しみの声であろうとも、それを聴いた人は、初めて、それが人権侵害であると認識でき、そこから「そんなことはおかしいんじゃないの」と「人々の偉大な感情力」を引き出す行動が起きるのです。

しかし、 人権侵害をされた被害者本人が、侵害した事実を自ら沈黙し、葬り去ったとき、外の人たちは、何もなかったとしか思わず、そこから「そんなことはおかしいんじゃないの」も、何の行動も起きません。その最悪のケースが、原告の彼の回りの研究者を覆っている次の事態です。

「人権侵害の前に、自ら学問の自由を無意識のうちに放棄しているか、返上している。だから、いくら侵害されても侵害と思わなくなっている。おとなしくなった彼らはいまや絶望すらしなくなった」
このような思考停止はモラルの崩壊に至る。

この最悪の工程を阻止するためにも、「私たちは避難の権利を侵害されている」と堂々と言えるチェルノブイリ法日本版の制定が必要です。

だから、この人権法チェルノブイリ法日本版の制定に力を注ぐ人たちというのは、自ら人権侵害を体験し、絶望の中でその事実と向き合い、「人権侵害はおかしい」と声をあげる勇気を持った人たち、昨夏、カナダ・モントリオールの世界社会フォーラムに参加したお母さん、米沢の「追い出し」訴訟の被告の自主避難者のような人たちだと思います。

絶望をくぐり抜けようとする彼らこそ私たちの希望です。

2017年12月1日金曜日

4年前の振り返り:過去は変えられない、けれども未来は変えられる。それがチェルノブイリ法日本版の制定だ。

                                                    柳原 敏夫
4年前、2013年4月24日、福島の子どもたちの集団避難を求めて2011年6月から取り組んできた「ふくしま集団疎開裁判」の仙台高裁判決(決定)で、原告はあと一歩のところで敗れました(Ourplanet解説)。
その「狐につままれた」「仙台高裁話法」の判決を聞いたとき、こう思った--過去は変えられない、けれども未来は変えられる。
それから4年経って、未来は変えられる。今それが、チェルノブイリ法日本版の制定することだと、確信するようになりました。チェルノブイリ法日本版の制定は子どもたちの命令です。そして、子どもたちには未来しかないのです。子どもたちの命令なら未来は必ず変えられるからです。

以下、その判決当時の感想です。

         ***************

過去は変えられない、けれども未来は変えられる。

未来を変える最大の力、それは私たち一人一人が夢、願いを持ち続けること。
人間の命と暮しと地球環境を守りたい。この夢は放射能汚染したからといって捨てることはできない。
この先たとえ何百年かかろうとも「福島」のこの夢の実現に向かって歩み出したい。
その歩みでまっさきに必要なのは――除染でも経済復興でもない。今すぐ、放射能に最も敏感な子どもたちを安全な場所に避難させること。

ところが、そんなことをしたら、ウクライナみたいに経済が悪化し、破綻すると言う人がいる(山下俊一福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの2012年8月26日付け毎日新聞インタビュー)。
それはあべこべだ。ウクライナみたいに、5年も避難させなかったから、その間ずっと被ばくして健康被害が激増して、病人だらけになった結果、経済がどんどん悪化したのだ。
また、福島からの人口流出を食い止めることが最大の課題だ、いったん子どもたちを避難させたら戻ってこない、福島は崩壊すると信じている人がいる。
いったい子どもたちは人質なのですか。子どもたちはそんなに信頼されていないのですか。命がけで子どもたちを安全な場所に避難して命を救った事実をすぐ忘れてしまう忘恩な連中だと思われているのですか。

菅谷昭松本市長は放射線災害が従来の自然災害と全くちがうことを強調する。計り知れない大惨事であり、復興・再生にも従来の自然災害の常識が通用しないことを理解する必要があると言う。その通りだ。
同時に、放射線災害は天災ともちがう。人間の科学技術がもたらした人災・事故であり、交通事故ですら認められている加害者が被害者を救護する義務を負う。そのうち子どもと妊産婦は最優先に救護されるべき最も傷つきやすい存在、大切な存在で、彼らこそ本来、真っ先に救護されるべき犠牲者なのです。

未来は変えられる。私たち一人一人が正しい認識と正義に立った願いを持ち続け、つながって声を上げ続ける限り。

2017年11月29日水曜日

Q:私たちは何者なのか?A:私たちは産婆である。

2017年5月、三重県伊勢市のお母さんから発せられた「チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか」という呼びかけに賛同した市民が、いま、制定の取り組みに向けて準備を重ねてめています。その取り組みをする中で、ふと、
「こんな取り組みに参加する私たちって何者だろう?」
と思ったとき、ごく自然に、
「私たちは、産婆さんなんだ」
と思えてきました。

それは、
「私たちの目の前にいる市民ひとりひとりにとって産婆さんになろうとすること」
という意味です。

それは何のために?--それはこういうためにです。

私たちの目の前にいる市民ひとりひとりの心の中には「放射能災害による被ばくから命、健康、暮らしを守るために人々には本来、避難する権利があり、それを保障するチェルノブイリ法日本版は当然、制定されなければならない」という天命が宿っています。
ただし、それは心の中に宿っていても、必ずしも自覚されて自然に外に出てくるとは限りません。
だから、それを自覚し、外に取り出し、カタチにする必要があります。
その出産を手助けするのが産婆=私たちなんじゃないか、という意味です。

人々の中に眠っている天命が目を覚まし、出産できるようにそばで手助けすること、これが私たちのやれること、やることではないかと思いました。

人々の心の中にある天命が目覚め、天命を発見することはその人自身にしかできないことです。私たちは、それを難産にならずにできるだけスムーズに誕生することを手助けすこと、これが私たちの取り組みのエッセンスなんだと思いました。

これが分かって、私たちは力まず、力を抜いて、ぶれずにこの市民立法の取り組みをやっていけるのではないかという気になりました。

311後に最も必要なことは「被ばくから命、健康、暮らしを守る『避難の権利』を保障するチェルノブイリ法日本版」を市民の手で制定することです(2017年11月29日)

                                                   柳原 敏夫

 以下の文章は、2011年3月の福島原発事故発生後、最も必要なことは被ばくから子どもたち、住民の命、健康、暮らしを守る「避難の権利」を保障することで、その実現を目指して、ふくしま集団疎開裁判等の裁判に取り組んできたこと、今、そのために、チェルノブイリ法日本版の制定を市民の手で条例制定からスタートして、法律制定を実現する取り組みが重要だと考えていること、その経過をごく簡潔に記したものです。

1、原発事故発生から2016年3月まで
311福島原発事故の1ヶ月のち、文科省が「日本史上最悪のいじめ」である年20mSv引き上げ通知を出し、福島の子どもたちを放射能の被ばくの中に閉じ込めたのに対し、同年6月、国の責任で子どもたちの避難を求めるふくしま集団疎開裁判を申立てました(→動画)が、紆余曲折の末、2013年4月、仙台高裁が「福島の子どもは危ない。避難するしか手段はない」と事実認定しながら、「危険と思う子どもは自分で逃げればよい。被告郡山市には避難させる責任はない」と驚くべき司法判断を出したので、この決定は日本を除く全世界にいっせいに報じられました(NYタイムズ、ワシントンポスト、ABCニュース、ガーディアンRTニュース‥‥←それらの記事をまとめたパンフ)。

 正しい事実認定を行いながら、理解不可能な法的判断を下した仙台高裁決定をただすため、2014年8月に第二次のふくしま集団疎開裁判(子ども脱被ばく裁判)を提訴しましたが、今度は被告が国、福島県計7名にのぼり、長期戦を余儀なくされたため、チョムスキーからの指摘を受けて試行錯誤した末、できるかぎり早期の救済実現のため、上記裁判と同時並行で、2016年3月、市民立法=市民による法律制定の取り組みを始めました(以下、その告知文)。


◆放射能から命を守ること=避難することは人権です。 市民のネットワークで作る人権法=チェルノブイリ法日本版制定の市民運動をスタート!

2、2016年3月から2017年11月まで
私たちはこの取り組みを、告知の直後に東京・福島で開催された、また、昨夏のカナダのモントリオールで開催された2つの世界社会フォーラムの場で訴えました。
東京・福島
 昨年暮れに、兵庫県宝塚市と三重県伊勢市で、チェルノブイリ法日本版の学習会を開催し、現地の市民の人たちと制定の必要性について意見交換をしました。

今年3月末、三重県伊勢市の市長に会い、チェルノブイリ法日本版の条例制定について説明しました。
今年5月、伊勢市の保養団体の代表のお母さんが、「チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか」という呼びかけ文を起草し、公表。この呼びかけに応じて、長野県松本市、栃木県塩谷町、カナダ・モントリオール、静岡県静岡市、千葉県野田市、北海道富良野市、愛知県日進市、滋賀県大津市、三重県度会郡玉城町、福島県福島市、和歌山県東牟婁郡串本町、静岡県富士宮市‥‥の市民の方たちから賛同と制定運動への参加の連絡をもらい、ネットワークを形成しています。

また、原発事故は国境なき人災であり、チェルノブイリ法日本版とチェルノブイリ法国際条約は原発事故から世界の人々の命、健康、暮らしを守る両輪の輪です。チェルノブイリ法日本版制定の市民運動は世界市民運動との連携が不可欠です。そこで、伊勢市のお母さんの呼びかけ文は英語フランス語韓国語に翻訳され、告知されました。

今年10月、チェルノブイリ法日本版条例のモデル案とその解説がひとまず出来上がり、この条例モデル案を元に、これから本格的に、この法律制定に関心を持つ全国各地の市民と学習会、意見交換の場を持とうと準備に取りかかっています。
 
3、日本の市民運動が直面した2つの亀裂とその克服の重要性
311後の私個人の最大のショックは、2011年4月19日、文科省から「日本史上最悪のいじめ」である年20mSv通知が出されたことそのものよりも、そのあと、にも関わらず、それが通用したことです。一部の人が異議申立の声をあげたとはいえ、日本市民はこれを容認してしまった。それは、直接民主主義の源泉となっている日本の市民運動が年20mSv通知の残虐さ(放射能内部被ばくの危険性)に対する認識・注視が欠如していたという欠陥を示すものでした。
他方で、マイノリティとはいえ、放射能内部被ばくの危険性に対する認識・注視を保持していた市民の人たちは、相互扶助をしながら、避難、保養等の「脱被ばく」のアクションに取り組んできましたが、民主主義の体験や洞察が少ないため、どうしたら国に避難の権利を保障させることができるのか、旧来の議会制民主主義(お任せ民主主義)しか知らないため、直接民主主義をどのように行使したら実現可能なのか、そのビジョンを持てないという欠陥を持っていました。
日本の市民運動は、一方で直接民主主義に敏感な人たちは放射能の内部被ばくに鈍感であり、他方で放射能の内部被ばくに敏感な人たちは直接民主主義に鈍感という2つの両極に分断されていました。これが福島原発事故後の日本の市民運動が直面した深刻な亀裂だと痛感していました。けれど、同様の事態はチェルノブイリ事故当時も起きたのです。元NHKディレクターの馬場朝子さんはこう語っています。

私(馬場)がウクライナを取材で訪れるのは3度目である。前の2回は「ソビエト時代」のウクライナで、ソビエト崩壊目前の揺らぐ社会主義体制を取材するものだった。 ‥‥
(事故から26年後の)いま思えば、この時チェルノブイリの事故の影響が人々の間に、何も知らされないまま、じわじわと広がっていたのだ。 ‥‥
事故後3年間は、チェルノブイリ事故の情報はひた隠しにされていた。‥‥それよりも、目の前で起きている世界を2分してきた社会主義のリーダー、ソ連ががらがらと音を立てて崩壊していくさまに心を奪われていた。
あの時、チェルノブイリの事故にもっと注意を向けるべきだった。今回取材をする中で痛感した。》(「低線量汚染地域からの報告チェルノブイリ 26年後の健康被害」44~46頁)

 だから、条例からスタートしてチェルノブイリ法日本版を制定しようという市民運動の提案は、この2つの亀裂の統合をめざすものでした。つまり、直接民主主義に敏感な人たちに対しては、放射能の内部被ばくの危険性を知り、被ばくから避難する権利の保障の重要性、すなわちチェルノブイリ法日本版の制定の重要性を確信してほしい。他方、放射能の内部被ばくに敏感な人たちに対しては、機能不全の議会制民主主義(お任せ民主主義)に一喜一憂するのではなく、直接民主主義の可能性に目を向け、直接民主主義の取り組みに自信をもって大胆に挑戦して欲しい。そう願っています。
しかも、直接民主主義の挑戦は私たちが初めてではありません。私たちの前には、少なくとも次の4つのモデルが既に存在しているからです。とはいえ、どのモデルも1つだけで私たちのプロジェクトにそのまま適用はできませんが、これらのモデルを組み合われば、私たちのプロジェクトに適用可能となります。
 ①.市民立法・情報公開法の制定の歴史
 ②.市民条約・対人地雷禁止条約の制定の歴史
 ③.1954年、杉並で始まった水爆禁止署名運動の歴史
 ④.1991年、旧ソ連で成立したチェルノブイリ法制定の歴史


私たちは、心と頭を絞って、本質的には何一つ片付いていない福島原発事故を世界標準のコモンセンスで再定義して、心と口と手と足を使って、私たちの望みに向かって歩んで行きたいと思っています。
                                    以 上
                                     
            

2017年11月27日月曜日

チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか(2017.5)

以下は、福島からの保養を熱心に取り組んでおられる伊勢市のお母さんが、2017年5月に、日本と世界の人たちに向けて、チェルノブイリ法日本版の制定の取り組みを呼びかけた文章です。
原文は-->こちら
             **************

              チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか                                                 上野正美(ふくしまいせしまの会  代表)

私たちは福島原発事故後、非営利で保養や野菜支援、三重県への避難者・移住者の支援などを行なってきました。運営については会発足以来、みなさまからのご寄付や助成金で行って来ましたが、6年が経ち、民間にできることは限られたものだと感じています。

 しかし原発からまき散らされた放射性物質から日々発射される放射線の脅威を考えたとき、これらの取組みはまだまだ必要なものです。では、前例のない過酷事故に対して私たちはどうしたらよいのでしょうか。正直、途方に暮れます。しかし、幸い私たちには前例から学ぶべきお手本が2つあります。

 1つは放射能災害に対して命と健康と暮らしを保障したチェルノブイリ法です。これは、放射能災害に見舞われた人たちがひとしく守られるべき、放射能災害に関する世界最初の人類普遍の人権宣言です。これを参考に、日本でもそれに添うような法を作るべきだと強く感じています。

 もう1つは、「情報公開」の法律を日本各地の市民の手で制定した経験です。日本各地の自治体で地元市民と議員と首長が協力して情報公開の条例を制定し、その条例制定の積み重ねの中から1999年に情報公開法が制定されました。この経験を参考に、チェルノブイリ法日本版を条例制定からスタートすべきだと強く感じています。放射能災害から命と健康と暮らしを保障するチェルノブイリ法日本版の条例をあなたの住む自治体で市民の手で制定していきませんか。どうか、以下の文をご一読いただき、この条例制定の取組みに賛同し、そして、共に参加いただけますよう心からお願いいたします。

 
************************************************************************************
チェルノブイリ原発事故から5年後、旧ソ連でいわゆるチェルノブイリ法が制定され、ウクライナ、ロシア、ベラルーシに引き継がれました。これら各国政府はチェルノブイリ法に則って、原発事故により放射能汚染された住民に避難の権利を保障し、また強制避難地域の住民の生活補償にあたってきました。3ヵ国ともに経済状況が良好とは言えないため、補償が法律通り実施できない状況ですが、少なくともチェルノブイリ法は原発事故の責任主体が国家であることを明記し、年間被曝量が1ミリシーベルトを超える地域に住むすべての住民に無条件で避難の権利を保障する画期的なものでした。

一方、福島では事故前の1ミリシーベルトの安全基準は事故後に20ミリシーベルトに引き上げられ、それが現在まで安全基準となり、帰還基準とされています。健康被害に対する救済についても、県民健康調査でこれまでに見つかった甲状腺がんは放射線が原因とは考えにくいとの理由から抜本的な対策が取られないままです。チェルノブイリ法が年間1ミリを基準として、原発事故で健康被害の可能性があればすべて救済しているのとは対照的です。実は旧ソ連でもチェルノブイリ原発事故直後、住民の許容被ばく線量が百倍に引き上げられ、チェルノブイリ法制定時にも100ミリシーベルトで問題ないとする見解もありました。しかし、事故処理にあたった労働者などの声に押され国際基準の1ミリになったものです。悲痛な原発事故を体験した日本でも、命こそ宝という原点に立って、良識ある市民がチェルノブイリ法日本版制定について声を上げ、その実現に向けて行動を起こすことが必要だと思います。

この取り組みに賛同し、参加してみたいと思う方は、私たちとつながり、一緒に条例のモデル案や条例制定の手順などを相談しながら取り組みませんか。         
 
                                               2017

この呼びかけに賛同し、条例制定の取り組みにご参加いただける方は、お名前、ご連絡先(アドレス)、ご住所を記入の上、以下までご連絡をお願いします。

連絡先:Email: ueno_masami_1108*yahoo.co.jp(上野正美)
          noam*m6.dion.ne.jp       (柳原敏夫) 
                       (*を@に置き換えて下さい)
なお、この呼びかけには以下の方が賛同し、条例制定の取り組みへの参加を表明しています。


安藤雅樹(弁護士 「まつもと子ども留学基金」監事)    
岩間綾子(「とちの実保養応援団」代表)    

大槻とも恵(社会学博士・カナダ・モントリオール市在住) 
小笠原学(支援交流『虹っ子』)
岡田俊子(脱被ばく実現ネット)       
チョ・ジウン(韓国ソウル市出身・デューク大学留学生)  
馬場利子(静岡放射能汚染測定室)              
三ッ橋トキ子(放射能汚染から子どもたちを守る会)    
柳原敏夫(ふくしま集団疎開裁判・元弁護団長)




2017年11月24日金曜日

Un appel à travailler ensemble pour l'implantation de la « Loi de Tchernobyl » au Japon

Translated by Monica Emond, PhD Candidate, University of Ottawa, Canada


Un appel à travailler ensemble pour l'implantation de la
« Loi de Tchernobyl » au Japon
Par Masami Ueno
(Directeur de l'association Fukushima-Iseshima)


L'association a but non lucratif Fukushima-Iseshima est située dans la préfecture japonaise de Mie. Nous avons aidé à l'installation des évacués, volontaires ou forcés, de Fukushima dans la préfecture de Mie et offert depuis mars 2011 des programmes de récupération, à Mie, aux enfants de Fukushima. Nous fournissons également des légumes frais aux familles de Fukushima.

C'est par le biais de dons et de subventions généreuses que nous avons pu mettre en oeuvre ces activités. Après six ans, nous réalisons cependant qu'une organisation comme la nôtre possède des capacités limitées. Nos activités demeurent par ailleurs nécessaires car la radiation provoquée par la catastrophe nucléaire de Fukushima affecte encore aujourd'hui le quotidien des personnes touchées. La question qui se pose alors est comment composer avec les effets d'un désastre d'une envergure sans précédent. En toute honnêteté, nous nous trouvons aujourd'hui perdus. Il y a néanmoins deux précédents que nous devrions suivre.

Le premier est la promulgation de la Loi de Tchernobyl établie par l'ancienne Union Soviétique. Elle visait la protection de la vie et de la santé des personnes affectées par la catastrophe nucléaire de Tchernobyl en 1986. La Loi de Tchernobyl est également la première loi au monde à mettre en avant le droit humain universel à la protection de la vie des personnes touchées par le désastre de la radiation. Nous croyons que le Japon doit adopter une loi équivalente à la Loi de Tchernobyl.

Le second précédent porte sur l'établissement de la Loi sur la liberté de l'information adoptée par le Japon en 1999. Cette loi fut la résultante de l'effort concerté des citoyens à travers tout le territoire japonais. Ceux-ci réclamaient la mise en application de cette Loi auprès de leurs instances locales de gouvernement ainsi qu'auprès des membres des conseils municipaux. C'est ce mouvement citoyen qui a mené à l'adoption ultérieure de cette Loi au niveau national.

Nous aimerions travailler avec vous à l'adoption d'une Loi de Tchernobyl au Japon afin de protéger notre vie et notre santé contre les dangers de la radiation.  

Nous vous enjoignons à prendre un moment pour lire ce qui suit et nous espérons que vous supporterez notre idée et vous joindrez à nous afin d'établir une Loi de Tchernobyl pour le Japon.

________________________________________________________________________

Cinq ans après le désastre nucléaire de Tchernobyl, l'ancienne Union Soviétique a adopté ce que l'on appelle la Loi de Tchernobyl, une initiative emboîtée par les gouvernements de l'Ukraine, de la Russie et du Belarus après le démantèlement de l'URSS. Tout ces gouvernements ont garantie le droit à l'évacuation et la sécurité sociale aux résidants vivant dans des régions contaminées par la radiation. Or, ne jouissant pas forcément d'une situation économique favorable, ces trois pays ne sont pas en mesure de remplir les conditions de prestations prévues par la Loi. Cela n'empêche pas cependant de reconnaître la portée historique de la Loi de Tchernobyl qui attribue la responsabilité première des désastres nucléaires aux gouvernements et qui établie le droit inconditionnel à l'évacuation des personnes résidant dans des régions où l'exposition à la radiation dépasse 1 mSv par année.

Après l'accident nucléaire de Fukushima, le gouvernement japonais a pour sa part haussé la norme concernant la dose limite d'exposition à la radiation de 1 mSv à 20 mSv par année, une norme qu'il maintient toujours en vigueur. Il semble que cette norme de sécurité fait office de critère ayant guidé le gouvernement dans sa décision récente de lever l'ordre d'évacuation.

Plus encore, le Comité d'enquête sur la gestion de la santé à Fukushima a écarté la possibilité de l'existence d'une causalité entre l'augmentation des cas de cancers de la thyroïde chez les enfants de Fukushima et la radiation et n'a pris aucune mesure sérieuse concernant les problèmes sanitaires des habitants de Fukushima.

La politique japonaise de gestion des risques associés à la radiation diffère considérablement des trois États de l'ex-URSS qui ont fixé la dose limite d'exposition du public à la radiation à 1 mSv par année et garantissent la sécurité sociale aux personnes ayant été diagnostiquées comme victimes potentielles des conséquences radiologiques de l'accident nucléaire de Tchernobyl.

Immédiatement après cet accident, le gouvernement de l'ex-Union Soviétique a haussé la norme relative à l'exposition du public à la radiation de 1 mSv à 100 mSv par année. Dans la période précédent l'adoption de la Loi de Tchernobyl, certains experts ont même insisté pour faire valoir le caractère « sécuritaire » de la norme de 100 mSv par année. Or, à la suite de l'opposition virulente des travailleurs de la centrale nucléaire qui ont eut à faire face à la catastrophe, celle-ci fut ramenée à 1 mSv par année, ce qui correspond à la norme internationale.

Nous aussi, les citoyens du Japon, avons vécu une catastrophe nucléaire nous rappelant la dignité de la vie.

Il nous faut dès à présent prendre la parole et agir afin d'établir une Loi de Tchernobyl pour le Japon.


Mai 2017

Prière de nous contacter si vous désirez travailler à nos côtés à l'élaboration d'un plan et la formulation de procédures afin d'appliquer la loi au niveau municipal. Vous trouverez les contacts pour nous rejoindre ci-dessous:

Email: ueno_masami_1108@yahoo.co.jpMasami Ueno

noam@m6.dion.ne.jpToshio Yanagihara

 ***************

-->The above call(In English)

-->The above call(In Korean)

-->The above call(In Japanese)