2017年6月26日月曜日

なぜ今、チェルノブイリ法日本版条例の制定なのか--チェルノブイリ法日本版その可能性の中心--(3)原発事故の1度目の事故(チェルノブイリ)

3、「人間と自然との関係」の中で発生した1度目の原発事故

(1)、チェルノブイリ原発における1度目の事故
 今から31年前の1986年4月、旧ソ連、現在のウクライナとベラルーシの国境付近にあったチェルノブイリ原子力発電所で事故が発生しました。
映像作家チェルトコフチェルノブイリの犯罪によれば、この原発事故の1度目の事故は次のことを意味します。

・チェルノブイリ原発のうち一基で実施された40秒足らずの実験で、ヨーロッパ全土を人が住めない土地に帰するほどの大惨事になる可能性があったこと。
・その大惨事を防いだのは、
事故直後のチェルノブイリ上空をヘリで飛び、原子炉の土台の下に液体窒素を注入することで大惨事を防げると突き止めた1人の科学者(ヴァシーリ・ネステレンコ)と、


その科学者のプランを実行するために灼熱と高濃度の放射能地獄の現場に送られた何万人の炭鉱夫たち(リクビダートル〔後始末をする人という意味〕と呼ばれた)の尽力によるものだったこと。


http://www.belarusguide.com/chernobyl1/liquidators.htm

しかし、この「人間と自然との関係」の中で発生した過酷極まる1度目の事故のあと、直ちに、一層し烈、かつ過酷を極める2度目の事故が「人間と人間との関係」の中で発生します。

それが、 ソ連だけでなくヨーロッパ全土を救ったこの科学者に与えられた勲章は、それまでの所長の地位解任とKGBによる二度の暗殺計画でした。
ネステレンコは「パニックを煽るろくでなし」と警告されたにもかかわらず、放射能を感知する器官を持たない汚染地の住民たちが、ソ連政府の不作為により無防備なまま取り残されている事態に我慢ならず(※)、住民らの保護を訴え続けるのをやめなかったからです。

他方、原発事故から欧州大陸を救った何万人の炭鉱夫たちに与えられたのは、事故被害者の統計から除外され、「存在しないもの」として扱われることでした。
その結果、この抹殺政策の中で、彼らの若者の殆どが身障者となり、多くは30、40代で命を落としました。

なぜこのようなし烈かつ過酷な2番目の事故が発生したのでしょうか。
それは、チェルノブイリ原発事故で1番目の事故が発生した時、原発事故が次のように再定義されたからです。

IAEA事務局長ハンス・ブリックスは「チェルノブイリのような事故が毎年起こっても人類は大丈夫だ」と宣言した。(チェルトコチェルノブイリの犯罪(上巻)194頁ネステレンコの証言)

IAEAの事務局長ブリックスは「原子力産業はチェルノブイリ級の事故に毎年でも耐えられる」と断言した。「真実はどこに?」でアレクセイ・V・ヤブロコフの証言)

これはジョークではありません。国際原子力ロビーの人たちは、原発事故で1番目の事故発生が避けられないことを大真面目に検討し、原発事故が発生することを前提にして、そのあとに続く2番目の事故のためのシナリオを用意周到に練り上げたのです--チェルノブイリ級の事故に毎年起こっても大丈夫と思わせるほど「事故を小さく見せる」シナリオ、すなわち「無知の戦略」と言われるものです。
そして、直ちにチェルノブイリに適用しました。その一例がネステレンコと何万人の炭鉱夫たちに与えられた以上の処遇でした。
チェルノブイリ事故をつぶさに観察した映像作家チェルトコフは、この2番目の事故を「チェルノブイリの犯罪」と呼びました。
その後、この2番目の事故は一層磨き上げられました。そして、福島でも適用されたのです。

(※)《 私の人生をほんとうに変えてしまったのは、子どもたちの被ばくという衝撃的事実でした。‥‥
(子どもたちがたいへんな目に遭っている現場を目撃し)このとき、私は思ったのです。原子力というテクノロジーは何十万人もの人間をこれほどまでに不幸な目に遭わせるものならば、それはこの世に存在する権利を持たない、と》(チェルトコフチェルノブイリの犯罪上巻)191~193頁ネステレンコの証言)

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