2017年6月21日水曜日

追悼生井兵治:生井は生きている(2017.6.21)


                          (2015.5.23新宿デモ)

柳原敏夫

 生井さんとは個人的に親しかった訳ではない。なのに、彼の逝去を知った以降も、彼が死んだとはどうしても思えず、私の中で彼はずっと生きている。それはなぜなのか、その訳を考え続けている。

 福島原発事故は、自分がたとえ千年長生きしたとしても経験できないような、それ以前と隔絶する体験だった。99%の人と関係が切れてしまった。その時、伴走していたのは生井さんだった。彼は2011年6月、ふくしま集団疎開裁判の提訴のとき、自分から進んで郡山まで来て提訴に立ち会った。疎開裁判で専門家の証言が必要で途方に暮れているとき、沢田昭二さん、矢ヶ崎克馬さんを紹介したのも彼だった。マスコミから無視され続けた疎開裁判がブックレットで広報活動の必要性を痛感していたとき、本の泉社を紹介し、社長に引き合わせてくれたのも彼だった。私らが新宿で子どもたちの避難を訴えるデモをやったときも、真っ先に駆けつけてスピーチしたのも彼だった。松本市のNPOまつもと子ども留学基金の正会員に申し込んで来たのも彼だった。一体こんな科学者がいるだろうか。

 けれど、生井さんは最初からそうだった訳ではない。彼を初めて知ったのは2005年、新潟県上越市で、全国で初めての遺伝子組換えイネの野外実験が地元市民の猛反対を押し切って強行され、地元市民が野外実験中止の裁判に訴え、私も代理人になった時だった。私がこの裁判を鮮明に覚えているのは、私自身、それまでの著作権専門のブルジョア弁護士から国に真っ向から異議申立を唱えるならず者弁護士に舵を切ったからである。
 
 実は生井さんも似たところがあった。この裁判で「イネの花粉の飛ぶ距離」が争いとなり専門家の書面が必要となった時、弁護団長神山美智子さんが生井さんを紹介してくれた。彼は依頼に応じたもののどこか迷惑風で、腰が引けていた。しかし、市民運動が初めての私は無知の強みで彼にズケズケ協力を迫ったせいか、或るとき本音が語られた――《書面だとしても農水省と直接対決的な状況には、まだなりたくありません。相手方に学会等を通じてあまりにも旧知の人が多すぎます。私は、早くから市民団体の要請で、いろいろ書いたりしゃべったりしておりますので、農水省からはすでに「要注意人物」と見られており、上司から「先生のためにならないからに忠告したら」と言われた弟子もおります。そう見られても痛くも痒くもありませんので書いたりしゃべったりは増える一方ですが、まだ見え隠れしながらのほうがお役に立てるのではないかというのが偽らざる心境です。・・・時間が無いことは分かりますが、そして私をご指名して下さったことにはそれなりに嬉しく存じますが、当方の状況もお察しください。》

このメールを読み、なんて正直な人なんだろうと思った。研究者としてのキャリア・人間関係と市民運動とのはざまに立つデリケートな状況に全く無知だった私は謝罪し、次の返信を書いた。
《もともとこの裁判は、三無主義(無遠慮、無分別、無謀)で始めたようなものですので、ご心配ありません。私も、これから、人生の後半生の50年かけて取り組んでいく積りなので、今回の裁判だけで右往左往する気はありません。・・・これからも、可能な範囲で、引き続き、よろしくお願い申し上げます。》

 しかし、事実は小説より奇なりで、このあと、生井さんはあれほどためらった陳述書を自ら書くと名乗り出たのである。それは、野外実験の危険性を訴え、実験の中止を求める私たちの懸命の声に対し、裁判所が聞く耳を持たず、訴え却下の判断を下したからだった。判決で引用された国側の専門家証言のでたらめぶりに彼の良心はどうしても我慢ならず、研究者としてのキャリア・人間関係と市民運動とのはざまに立っていた彼はルビコン川を渡ったのである。生井兵治67歳。

 そのあとの彼は、遺伝子組換えイネ裁判の最大の協力者のひとりとしていつも私たちと共にいた。国側の主張書面に対する反論の準備の中で、「集中度が高まると時間は延びるのだ」を信念にして、〆切前夜の土壇場で最も本領を出す私の悪弊を(ほかの人たちはウンザリしていたのに)嫌がらずに、最後まで付き合ってくれたのも生井さんだった。分からないことがあるといつも彼に電話をした。決まって電話口に出るのは奥さんで、「はい、はい。・・・お父さん、柳原さんだよ~」と呼ぶ声がして、しばらくして「はい、はい、お待たせしました」と生井さんの声がした。

 科学技術の発展の末に、公害・薬害が発生し、原発事故が発生し、バイオ事故が発生し、その結果、最大の被害者は科学者ではなく、いつも普通の市民だ。生井さんは、この科学技術の正体を、この被害の真実を目の当たりにしたとき、彼はそれまで築き上げてきた研究者としてのキャリア・人間関係はどうでもよいと思って、ルビコン川を渡った。しかし、このとき彼は研究者としてのキャリアを本当に活かす生き方を選択したのだ。このとき、生井は不滅の人になった。このとき以来、私の生井は生きている。

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