約半年後、 作家の大岡昇平の次の言葉が私を捉えました。
《ひとりひとりの兵士から見ると、戦争がどんなものであるか、分からない。単に、お前はあっちに行け、あの山を取れとしか言われないから。だから、自分がどういうことになって、戦わされているのか、分からない。 それで、戦争とはこういうもので、あなたはここに出動を命じられ、それで死んだんだということを、なぜ彼等は死ななければならなかったのか、その訳を明らかにしようとしたのです。》
(太平洋戦争の天王山と言われたフィリピンのレイテ島の激戦「レイテ戦記」を書いたあとのNHKインタビュー)
これは311後の自分たちとピッタリ同じではないか、と。
《3.11のあと、ひとりひとりの市民から見ると、福島原発事故がどのようなものであるか、どうしたらよいのか、真実は分からない。「健康に直ちに影響はない」「国の定めた基準値以下だから心配ない」とかしか言われないのだから。だから、一体自分がどういう危険な状態にあるのか、どう対策を取ったらよいのか、本当のことは分からない。》
そこから、こう考えました--だとしたら、ひとりひとりの市民にとって必要なことは、「レイテ戦記」のように、福島原発事故とはこのようなもので、このような危険な事態が発生していて、それに対して必要な措置を取らずにいると、言われるままにいると、ひとりひとりの市民には、今後、大変な健康障害が発生することを明らかにし、それゆえ、取り返しのつかない事態になる前に今すぐ必要な救済措置を取ることであることを明らかにするため、「ふくしま集団疎開裁判」の中で放射能に対する感受性の高い子どもに焦点を当て、この真実と正義を明らかにし、救済を目指してきしました。
この意味で、原発事故は「戦争」に酷似している、ただし、これは通常の戦争のように攻撃が目に見えて、直ちに即死する訳ではない。痛くも痒くもなく、目に見えない放射線による攻撃という「新しい形式の戦争」です。
しかし、ひとりひとりの市民から見ると、原発事故がどのようなものであるか、どうしたらよいのか、真実は分からないという点では、ひとりひとりの兵士から見ると、戦争がどのようなものであるか、どうしたらよいのか、真実は分からない戦争と共通です。
しかし、ひとりひとりの市民から見ると、原発事故がどのようなものであるか、どうしたらよいのか、真実は分からないという点では、ひとりひとりの兵士から見ると、戦争がどのようなものであるか、どうしたらよいのか、真実は分からない戦争と共通です。
好むと好まざるに関わらず、私たちは今、「新しい形式の戦争」の中に置かれているのです。
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