2014年4月11日金曜日

「砂がわ」れて崩れる安部首相の集団的自衛権容認論

4月11日の東京新聞は、安部首相が、最近、集団的自衛権容認論を根拠づけるために、1959年に最高裁で出された「砂川事件」判決(→判決全文)を根拠にする考えを示していると報じた。

安部首相は法律の専門家でないから、彼のブレーンの誰かがそのような知恵を授けたのだと思う。それは、失態を作って彼を首相を引きずり降ろす魂胆ではないかと思ってしまうほどの、スキャンダルなアイデアだ。

法律を少しでもかじったことがある人なら、この「砂川事件」は、安保条約に基づいて米軍が日本に駐留することが憲法9条の「戦力」の保持に該当するかどうかが争われた事件であることを知っている。
そして、一審の東京地方裁判所が、わが国が外部からの武力攻撃に対する自衛に使用する目的で米軍の駐留を許容していることは、憲法9条の「戦力」の保持に該当すると判断した(いわゆる伊達判決)ことも知っている。
これに対し、検察は異例の措置=最高裁にいきなり上告し(飛躍上告)、最高裁が一審判決を破棄したこともよく知られている。
問題は、その最高裁判決の理由づけである。これは、どの標準的教科書にも載っている次の通りである。

 米軍の駐留を定めた日米安全保障条約は、「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するもの」であるから、それが「違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する 内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねらるべきものであると解するを相当とする。」(清宮四郎「憲法Ⅱ」339頁。芦辺信喜「憲法」337頁)

つまり、最高裁は、ここで法的な判断は可能であっても、高度の政治性などにかんがみて、裁判所の法的判断から除外される行為、いわゆる「統治行為」かどうかを問題にした。これもまた、よく知られたことである。言い換えれば、最高裁は高度の政治問題に余計な口出ししないことを理由にして現状を肯定したのである(司法消極主義という)。

最高裁は、日米安全保障条約が憲法に違反するかどうかですら、「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するもの」であり、最終的には国民の政治的判断に委ねらるべきものを理由にして、裁判所の権限外だとして、その判断を回避した。
その最高裁が、安保条約よりも一層、「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するもの」である「集団的自衛権」について、同じ判決の中で裁判所が積極的に判断を下していたら、頭がおかしくなったと指摘されるのは必至である。そんな前後撞着するような馬鹿な真似はしない。
それから半世紀後、 時の首相が前後撞着する馬鹿なことをいきなり言い出したので、墓の下で当時の裁判長田中耕太郎(最高裁長官)は、お前たちはそこまで支離滅裂なことを言い出すのかとビックリ仰天していると思う。

 実際、この判決直前に田中耕太郎がひそかにアメリカの駐日大使と面談し、「一審の伊達裁判長が憲法上の争点に判断したのは全くの誤りだった」と語った(機密解除となった米公文書から2011年に判明)。このとき、田中耕太郎は、裁判所がこの種の議論に口を挟まないことだけを心がけたのである。「集団的自衛権」だけ例外にできるわけがない。