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2017年4月19日水曜日

父の遺稿「我が青年期」(17.4.19)

                                                     柳原 敏夫
2013年、が亡くなったあと、生前に彼が書いた「我が青年期」--といっても殆ど終戦前後の召集と満州での避難を記録した未完成の原稿が見つかった。

彼は、生前、この満州の逃避行について殆ど語らなかった。というより、私の子ども時代に、彼は語ろうとしたことがあったものの、語り始めや、顔はゆがみ、何かクシャクシャになったまま、絶句してしまうのだった。もともと口べたのせいもあり、そんなことが二度三度あったあとは、もうそれ以上、自ら続きを語ろうとしなかった。

しかし、私が20代の終わり頃、司法試験に6戦6連敗、どうあがいても乗り越えられないのではないかと絶望の底に沈んでいると、父は再び、満州の逃避行について語り始めた。田舎で妹の結婚式に参加し、久々に両親に再会した私に、同室の父は、フトンに頭をつけながら、
「あの頃は、眠りにつくたびに、二度と目覚めないんじゃないか、と毎日思ったもんだ。朝、目覚めると、ああ、まだ生きていると思った・・・」
「今でも、毎晩、そう思う」
とさらりと言った。この瞬間、私は毎年不合格で親を嘆かせている我が身の親不孝を実感した。
しかしその後、父にはそんな嘆きの気持ちは微塵もなかったのではないかと思い直すようになった。彼は私が不幸の底に沈んでいるとき、そのとき初めて、自分自身が戦争で経験した途方もない不幸を自分の肉親と共有できる稀有な機会にめぐり合ったと理解し、彼の体験を語ったのだ、と。

同時に、父の戦争期の体験が30年以上経った今も、毎晩蘇っているとは思ってもみなかった。
しかし、そう思って振り返ると、彼の言動の肝心なところはすべて戦争期の体験がそのまま反映しているとしか思えないことが分かった。 90歳の時、医師から「胃がんです。高齢ですから、無理することはありません。手術、どうしますか」と聞かれたとき、即座に「やります」と答え、そのあと父は、突然、満州での逃避行の話をし始めた。思うに、彼は、自分にとって人生の決断の瞬間にはいつも、彼が様々な試練に遭い、それと苦闘する中で生き延びることができた、満州の逃避行の体験に立ち戻って決断がなされたのだった。

敗戦のあと、日本人は気持ちを切り替えて、経済的復興に励み、経済的繁栄に成功したと言われている。その中にあって、彼はとても変わり者だった。なぜなら、生涯、「満州の逃避行」の体験にこだわり続けたから。
そのおかげで、 戦後、日本が経済的繁栄を極めたあとも、彼はその栄光に浮かれず、踊らされず、奢らず、昔と変わらぬ質素で慎ましく生きる姿勢を変えなかった。

しかし、なぜ彼は、経済的復興に邁進する日本社会の主流に合わせて一緒に踊らなかったのだろうか。なぜ彼は、経済的大国ニッポンから背を向けるようなあまのじゃくな生き方をしたのだろうか。なぜ彼は、戦争中の、こんな忌まわしい「満州の逃避行」の体験をさっさと水に流せばいいのに流そうとしなかったのだろうか。なぜ彼は、誰からも賞賛されないのに、ひとり、「満州の逃避行」ににこだわり続けたのだろうか。

思うに、戦前、朝鮮半島で日本が軍事的栄華を極め、我が世の春を謳歌して来た末に最悪の日を迎え、命からがら満州平野を逃げ延びた経験をした父の目には、戦後、日本が経済的復興に励み、経済的繁栄を極めた姿が戦前と重なりあって写っていたのではないかと思う。
戦後日本の経済的復興も繁栄も、隣国の朝鮮戦争、東南アジアのベトナム戦争に負うところが大であり、日本の経済的繁栄と戦地の人々の悲惨な死とが隣り合わせであることを知っていたからではないかと思う。だから、このような欺瞞に支えられた経済的繁栄はいつか必ず破綻し、2つの戦争(1つは人間と人間との戦争、もう1つは人間と自然との戦争=原発事故)という最悪の日を迎えることを確信していたのではないかと思う。

だから、そのような悲惨な事態にならないように、彼は、戦後、絶対永久平和主義者として、戦争反対を言い続けた。その彼の行動を支える原点は満州での悲惨な逃避行という体験だった。戦後の彼にとって、この体験は、もはや、過去のつらい、苦しい思い出ではなく、現在と未来の命(それは単に自分の子ども・子孫の命だけではなく、この世に生を授かった全ての人々の命に対しても)を守り抜くための、無知の涙を流しながら悟った貴い認識だった。幸い、彼は毎晩床につくたび、満州平野で流した無知の涙を思い出し、原点を思い出し、そのくり返しを最期まで続けた。

災いを転じて力となす--これが父が成し遂げたことだ。だが、これが実現するという保証はどこにもない。にもかかわらず、彼は満州の逃避行の体験を最後まで宝のように後生大事に持ち続け、その意味を考え続け、その姿勢を貫き続ける中で、とうとう、災いを生きる力に転化するという奇跡を成し遂げたのではないかと思う。

以上のことは、父が満州の逃避行を文章に書いてくれたからそれを読み、そこから考えをめぐらしたものである。もし彼の記録が書かれていなかったら、それは不可能だった。もし父の記録がなかったなら、子どもである私にとって、彼の貴い体験は存在しなかったにひとしい。否、彼の存在はなかったにひとしいほどに思えてくる。
彼の記録は、改行も句読点も満足になく、誤字・脱字に満ちている。
しかし、これは父から譲り受けた最大の遺産である。

            ※ 追悼 「父の涙、そして逃げる勇気」(2014.2.28)


                     柳原賢作「我が青年期」
http://1am.sakura.ne.jp/All/MyYouth.pdf
(クリックすると原稿が表示)

※ 生まれ故郷:佐渡の赤泊

※ 終戦時の住所:朝鮮半島の羅南

2017年3月9日木曜日

抵抗権の実行=3.4新宿デモの呼びかけ(17.2.7)

※ 以下の呼びかけに対し、広瀬隆さんが答えてくれました(→広瀬さんの返信)。こういう問答こそ私の願ったものです。

抵抗権の実行=3.4新宿デモの呼びかけ

こんにちは柳原です。依然寒い日が続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
今年初めての挨拶を差し上げます。

事故から6年経過して
福島原発事故からまもなく6年です。三宅島の天災では政府と自治体は全島避難したのに、日本史上最悪の未曾有の人災である福島原発事故は、人道上の措置として私たちも当初からずっと求めているにもかかわらず、人災の加害者である政府と自治体は汚染地から子どもたちの避難を今なお実現していません。奇跡のような信じ難い現状に、この6年間、まるで時間が止まっているかのような錯覚に襲われます。

日本の福島化
ただこの6年間ではっきりしたことがあります。汚染地から子どもたちの避難が実現しないことは日本が直面する「石が流れて木の葉が沈む」最悪の異常事態です。しかし、今の議会制民主主義には日本が直面する最大の緊急課題であるこの異常事態の過ちをただす力も意思もないということです。それならば諦めるしかないのか。その通りです。私たちは選挙のときだけ主役で、あとは劇場の観客でしかない代表民主制に依存することを諦めるべきです。そして、私たちは議員が集う議会ではなく、市民が集う広場に向かうべきです。また、この6年間で実感したことは、歴史はひとときも静止することなく、変化し、進化するものだということです。私から見てこの6年間は、日本全体が福島のようになる「全国の福島化」です。原発事故後、福島ではずっと命と健康を脅かされ続けながら、この異常事態を「おかしい!」という声すらあげることができない目に見えない戒厳令が敷かれ、ずっと続いています。しかし今、それが日本中に拡大しました。戦争法案を成立させ、共謀罪成立をめざし、研究者を軍事研究に向かわせ、日本中が戦争の脅威の中で命と健康を脅かされ、にもかかわらず「おかしい!」という声をあげることができない体制=福島の戒厳令体制を全国に拡大、敷かれようとしているからです。この6年間の福島の姿は今日と未来の日本の姿なのです。

トランプ登場という歴史の転換点
 これに対し、先日のトランプの大統領就任を見ていて、歴史の進歩を実感しました。トランプの大統領当選は、口では盛んに「チェンジ」と言いながら殆ど何も実行できなかった社会民主主義的政策のオバマ政権とその後継者であるクリントンに対し、選挙民からのノー!(きれいごとはもういい!)の表明でしたが、しかし、きれいごともかなぐり捨てて、傍若無人に強欲を追求するトランプが就任するや、世界中の広場から市民の抗議行動が起こったからです。これが本当の「チェンジ」の始まりです。

 35年間法律家をやっていて、ずっと分からなかったことがあります。憲法の教科書に「人権の随一、究極の問題は抵抗権である」と書かれている理由です。なぜ、表現の自由や生存権といった人権の究極の問題が抵抗権なのか?なぜ、近代人権宣言のアメリカ・フランス両革命の人権宣言に抵抗権が定められていたのか?その後の人権宣言で姿を消した抵抗権が、なぜ、第二次大戦後、再び定められるようになったのか?最後の答えはよく知られています。ワイマール憲法体制(議会制民主主義)を使って権力を握りワイマール憲法体制を破壊したファシズムの経験をくり返さないためです。では、なぜそのために抵抗権なのか?それは人権の究極の姿が抵抗権だからです。ならば、なぜ人権の究極の姿を抵抗権と表現したのか?――そこには、政府の圧制から人々の自由と平等を勝ち取ったアメリカ・フランス両革命に参加した当時の市民たちの確信が率直に表明されていました。しかし、なぜ抵抗権が究極なのか、その理由は示されていません。
今から10年前、一冊の本が出版されました。「生物と無生物のあいだ」。私にとって、この本が抵抗権の謎を解いてくれました。そこには生物が無生物と異なる理由について、生物学の視点から次のように書かれていたからです――自然界の法則であるエントロピー増大の原則は生物にも降りかかる。その結果、高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。しかし、生物はこの法則を受け入れ、なおこれを受け入れない抵抗の仕組みを見つけ出し、実行した。それが、やがて崩壊する構成成分をあえて先回りして自ら分解し、このような乱雑さが蓄積する速度より速く、常に成分を再構築すること。このダイナミックな分解と再構築を実行する点に生物を無生物と分かつ最大の特徴がある。生物の生物たる所以とは自然界の法則であるエントロピー増大の原則に抵抗して秩序を自ら作り上げることにほかならない。この意味で、抵抗は生物であることの証(あかし)である。だから、政府の圧制により人間らしく生きることを否定されるときこれに抵抗することは、別に誰かに教わったからではなく、生物であることそのものからやって来る根源的な反応である。その意味で、抵抗をしないとき、或いは抵抗をやめたとき、生物は無生物または生きる屍(しかばね)になるしかない。
 だから、私たちは、生物=人間であることをやめない限り、原発事故前であろうが事故後であろうが、非人間的な扱いに対し、抵抗しない訳にはいかない。だから、広場で「おかしい!」と意見を表明し、単に金の問題だけでは片付かない、本来の救済はいかにあるべきかを共に問答し探求しない訳にはいかない。それをやめたとき、わたしたちは運命に逆らわず無感動の中で生きるしかばねか従順な家畜になるしかないのです。そのことを昨夏、モントリオールの世界社会フォーラムに世界中から参加した市民の人たちの数々の行動を目の当たりにして、確信しました。

認識の甘さと抵抗権の実行
 原発事故直後、私は無邪気にこう考えていました――これくらい明々白々の人権侵害「子どもたちの被ばく」が救済されない理由はどこを探しても見つかりっこなく、誰にも救済を否定する根拠は挙げれないと確信してきました。その通りでした。しかしだからといって、救済は何一つ実現しませんでした。結局、日本政府も自治体もこれについて6年間黙して一切語らぬで、口にするのは「経済復興の妨げをするな」だけでした。そこから見えてきたことは汚染地の子どもたちの集団避難をもし本気で実行したら日本の現在の政治、経済体制は根底から揺らいでしまうと彼らは本気で危機感を抱いているのではないかということでした。もしそこまで危機感がないのなら、かつて菅直人がハンセン病患者救済を宣言して名を馳せたように、子どもの集団避難を宣言できたはずである。そして、その政治家は弱者ファーストとして絶大な信頼を勝ち得たはずである。しかし、政治家は誰一人実行する気配もない。子どもの集団避難は現政治、経済体制にとってタブーなのだ。
そこで私も決断を迫られた――現政治、経済体制にとって子どもの集団避難は触れてはならないタブーだという事実にどう立ち向かうのかである。しばし黙考した結論は次のことだった。もし汚染地の子どもたちを集団避難したために、日本の政治、経済体制が根底から揺らぐんだったら、それでもしょうがないじゃないか、今の政治、経済体制が原発事故で命と健康を脅かされている子どもたちの命と健康を守れないようなものなら、そんなものは粗大ゴミとして退場してもらうしかないんじゃないか。それをハッキリ表明すべきだ、と。と同時に、そのときこそ広場にみんなで集まって、粗大ゴミの今の政治、経済体制に代わって、子どもたちの命と健康を守り抜けるような、人間が人間として尊重され、大切にされるような政治、経済体制に作り変えていくために智慧を絞り、すべての希望を注ぎ込むしかないのではないかと。そのためなら、どんなに時間をかけてもかけるだけの甲斐のある取り組みなのではないか。それが本当の「チェンジ」、本当の「大改革」なのではないか、と。
昨夏のモントリオール訪問で、この心地よい夏が半年後には零下40度の厳寒になると言われた時、どうやってそこまで冷えるのか信じられませんでした。しかし今、それが現実のモントリオールです。私たちの目には見えない地球の傾き(地軸)が厳寒のモントリオールをもたらしたのです。政治、経済の仕組みはこの地軸みたいなものです。私たちの目に見えないところで、政治、経済の仕組みが原発事故で命と健康を脅かされている子どもたちの救済の妨げをもたらしているのであれば、少なくとも救済の妨げになっている側面を除去するよう、その仕組みを改めるしかありません――しかし、そんなことが果して可能なのだろうか。100年前、中国が最も暗い時代に魯迅はこう言いました。
「いかなる暗黒が思想の流れをせきとめようとも、いかなる悲惨が社会に襲いかかろうとも、いかなる罪悪が人道をけがそうとも、完全を求めてやまない人類の潜在力は、それらの障害物を踏みこえて前進せずにはいない。‥‥道とは何か。それは、道のなかったところに踏み作られたものだ。いばらばかりのところに開拓してできたもの」である、と(「随感録」)。

 それよりさらに2400年前、古代ギリシャで、ひとりの男が、議会ではなく広場に出て、公人となるのではなく私人として、誰彼となく市民に話しかけ、人々を問答に巻き込み、人々が陥っている虚偽の前提を論破し、人々が自ら真理に到達するように正義のために戦いました。ソクラテスです。彼のような人物が道のなかったところに道を踏み出したおかげで、その後の歴史の中で、人々は綿々と、広場で意見表明し、討論することの意義を知り、実行に挑戦し、その質量を高めていったのだということを、昨夏のモントリオールに集まった世界市民を目の当たりにして思いました。

 2500年後の私たちも、広場で、誰彼となく市民に話しかけ、人々を問答に巻き込み、今なお緊急事態宣言下にある日本(この6年間で福島化した日本)の最優先課題である汚染地の子どもたちの集団避難の問題の解決について、虚偽の前提を論破しながら、真実に沿った解決策を共に探求し、正義にかなった救済の実現に向けて訴えていきたいと思います。それが来たる3月4日の新宿デモ「子どもを被ばくから守ろう! 住宅補償の継続を!」です。
以 上

2016年12月25日日曜日

「チェルノブイリ法日本版」の制定の基本アイデアと制定までのロードマップについて(2016.3.18)

1、チェルノブイリ法日本版制定の基本アイデア

レジメはー>被ばくから命・健康と生活を守るための4つのアクションについて(私案第4稿)


(1)、法律の中身
死文化した「子ども・被災者支援法」と対比することでイメージがより鮮明になる。
①.被害者に対し、(人道的)支援ではなく、人災を起こした加害者として贖罪、賠償責任を果たすこと、被害者の立場からみると、人権(権利)保障であって、支援を受けるのではないこと。

②、具体的保障であって、抽象的、一般的な理念法にとどまる子ども・被災者支援法とは明確に異なる。

(2)、法律制定までのプロセス
①.政府が制定を嫌がったとしても、最終的に制定せざるを得ない状況を作り出すやり方を採用する。
 →過去の実例(情報公開法)をモデルにしたやり方を採用。
 →つまり、日本各地の条例制定の実績を積み上げる中で、本丸の法律制定に攻め上る。

②.漠然とした道のり(プロセス)ではなく、ゴールまでの具体的なロードマップを明確に描くことができること。
  過去の実例(情報公開法)の具体的なやり方から学ぶこと。

③.情報公開法制定のやり方をさらに進化させること。
 →市民の参加型民主主義をより進めること。一握りの専門家の手で作るのではなく、より多くの市民参加による草の根の条例制定をめざすこと。


2、チェルノブイリ法日本版制定までのロードマップ

モデルにする情報公開法制定のやり方は、2段階の制定プロセス(条例制定→法律制定)を採用。

情報公開法制定のロードマップは以下の通り。
→出典(情報公開法を求める市民運動の活動

①.「情報公開法を求める市民運動」(母体となる準備会)の結成:その特徴はピラミッド型の号令一下、上意下達の会ではなく、フラットなネットワーク型の会。
②.『情報公開権利宣言』の起草:法案の原理原則を明らかにした文書を作成。
③.②の宣言を具体化した条例を日本各地で制定するための条例制定運動(条例案モデルの作成など)と条例の制定
④.③の成果を元に、情報公開法の制定へ

以上をモデルにして、どういうアクションを行うか--ひとえに、私たちひとりひとりの創意工夫と意欲にかかっている。


3、チェルノブイリ法日本版の意義

その直接的な意義は、福島原発事故で被ばくを強いられ、苦しんでいる被害者の人たちの命を健康と生活を守るためです。

他方で、この法は、避難の権利の主体を、福島原発事故の被害者の人たちに限定するものではないので、その結果、実際上は、今、日本各地で原発再稼動の動きの中で、今後、原発事故発生の危険性を実感しているすべての住民の人たちにとっても、避難の権利の保障を意味します。

この意味で、この法律は原発反対、賛成という政策決定の問題とは無関係に、原発事故が発生した場合の住民の命、健康、生活を守るための人権法・普遍法です。
ですから、仮に原発推進派の立場に立つ人であっても、「放射能から人々の命、健康、生活が守られれるべきだ」と考える人ならすべて、この法律に賛同できる筈です。

この観点は、チェルノブイリ法日本版の条例制定を推進していく上で、とても大事なものです。

1年2年先ではなく、5年、10年、50年先を見据えて、行動(チェルノブイリ法日本版の制定)を続ける(2016.5.25)

先日、たまたま、数年前に或る人からいただいたDVDを観て、感銘を受けました。

除染された故郷へ~ ビキニ核実験・半世紀後の現実」 (2012年9月放送)

といっても、これは福島のことではありません。今から60年以上前、水爆実験が行なわれた南島のビキニ環礁のロンゲラップ島のお話です。

水爆実験によって被ばくした島民の人たちの「避難」→3年後の安全宣言→「帰還」→9年目から健康被害の多発→31年後の「集団離島」→「帰還の勧め」(=援助の打ち切り)の中で苦悩する島民の姿を描いたものですが、
低線量被ばくによる健康被害の問題という点で、福島原発事故と変わりません。むしろ、ロンゲラップ島の60年は福島の未来、放射能汚染地の未来を示していると確信しました。

1年、2年で一喜一憂することではないと思いました。
チェルノブイリ法日本版制定も5年、10年、50年先を見据えて取り組む永遠のテーマだと思いました。

以下、その映像と文字起し文です。

除染された故郷へ ~ ビキニ核実験・半世紀後の現実(2012年9月放送)
http://dai.ly/xu5f4w (49分)

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マーシャル諸島のロンゲラップ島。
避難民のことをロンゲラップピープルと呼ぶ。

ロンゲラップ島は、1954年3月1日の水爆実験により被ばく。
被ばく線量限度の2000倍。
灰が降り注ぎ、それに触れた人たちは焼けただれたようになった。

水爆実験の2日後米軍によって別の島に移された。
200km離れた基地で血液や尿を調べた。
医師を派遣したのは核兵器を開発管理するアメリカ原子力委員会。
放射線の人体に与える影響を知ることが最優先課題。
住民一人一人に識別番号を付ける。
生涯にわたり追跡調査をするため。
被ばくした人たちへの支持は、一日3回海で身体を洗うことだけ。
「そこにいた人たちは不幸なことにみんな病気になりました」
3か月後、また別の島へ移される。

3年後の1957年にアメリカ原子力委員会は安全宣言を出した。
島民250人が島に戻る。
その後、これまで無かった病気が多発。
直接被ばくしていない人までが病気に。
「母は甲状腺の病気になりました。そして、頭蓋骨のない子供を産みました。」
島に残る放射能の影響ではないかと島民は心配するが、アメリカから派遣された医師は否定。
島民にはニューヨークで浴びる自然放射線よりロンゲラップの方が低いと説明。

しかし、島民帰還の前の年に行われた会議では
「避難している住民が島に帰れば研究に役立つ」
と繰り返し発言。
「放射線の影響を調べる上で理想的な状況だ。」
「長期間に渡る低線量被曝の影響を調べられる。」
「それによって放射線に関する知識が増やせる。」

アメリカは島民にカードを持たせる。
直接被ばくしていない人はピンクのカード。
死の灰を直接浴びた人たちは緑のカード。
異なる条件の人々を同じ状況で比較調査できるのは、
アメリカにとって理想的な研究環境だった。

アメリカは派遣する医師に対しては、島の水や食料を取らないように厳しく指導。
島民にはほとんど規制せず。

定期健診で島民の体内のストロンチウムは20倍、セシウムは60倍にも跳ね上がる。
この事実は住民には伝えられなかった。

核実験から9年後、3人の島民に甲状腺の異常がみつかる。
年を追うごとにがんや白血病も続出するようになる。
核実験から18年後の1979年、19才の若者が白血病で亡くなり、島民は大きな衝撃を受ける。
アメリカ原子力委員会の言うことを信じる人はいなくなり、住民の代表がアメリカ人医師に送った手紙にはこう書かれてた。
「あなたは私達を、爆弾を研究するためのモルモットとお考えなのでしょう。」

核実験から28年後の1982年、アメリカが公表した文書には、ロンゲラップ島が爆心地のビキニ環礁と同じくらい汚染されていたと書かれていた。

核実験から31年後の1985年、住民は全員そろってロンゲラップ島を離れる決断をする。
325人の住民は、環境団体グリーンピースの協力で島を脱出。
住民はマーシャル諸島各地を散り散りばらばらになって暮らす。
この時から、ロンゲラップピープルと呼ばれるようになる。


島を離れて28年。(核実験から58年)
今また、帰島計画が巻き起こり、人々は戸惑っている。

帰島計画を進めるロンゲラップ地方政府、ジェームズマタヨシ首長は、除染作業を2年行う。
地面を25センチ除去し、サンゴを敷き詰める。
そして専門家は安全だと判断したという。
だが、除染したのは居住地域のみ。(0.1平方km)

アメリカのローレンスリバモア研究所による最新の調査結果、ハミルトン。
この研究所はアメリカのエネルギー省が所有する国立の研究所。
核兵器の研究開発を目的に1952年に設立された。
今もアメリカの頭脳ともいうべき研究所。

ハミルトン博士の発言。
「ロンゲラップ島は既に安全で除染をする必要もなかった。」
「住民が島を離れた1985年に比べ、放射線量は10分の1に下がった。」
「重要なのは、自然に下がったということ。除染をしなくても大幅によくなっている。」
「ただし、住民が食べ物を全て島のものを食べた場合は摂取する放射線量は3~4倍。」
「年間0.15ミリシーベルトの基準は超える。」
「マーシャル政府の基準は超えるが、島のものだけを食べる想定では無い。」

島民には慎重な意見や反発も多い。
「過去の経験から失敗は許されない。」
「子供たちへの影響が心配だ。」
「他の専門家は帰るべきでないと言った。」
「政府が議会に圧力をかけている。」
「アメリカは帰島しなければ援助をやめると言ったらしい。」
「何でおれたちが帰島を強制されなきゃいけないんだ。」

若い世代の間で、水爆実験やロンゲラップの話題が出ることはほとんどない。
一方、高齢者は島に帰って最期を迎えたいという願いが強い。

夢にまで見た故郷への帰島。
アメリカへの不信と永すぎた避難生活が壁となって立ちふさがる。

マタヨシ首長は、島に帰ったら養殖業を行って雇用を創出しようと夢を語る。
安全性は???

島民。
「汚染されているのは分かっています。でもあの島は慣れ親しんだ場所なんです。」
「私だって帰りたい。島が懐かしいんだ。」
「でも、子供たちが安全に暮らせるのか、、、。」
「本当に島がきれいなら帰らないはずはありません。汚染された故郷かそれとも他人の土地か。どちらかを選ぶしかないんです。」

水爆実験から58年。
島民たちは決断を迫られている。

「チェルノブイリ法日本版」の住民による条例制定が日本を変える(2016.5.26)

柄谷行人さんの
デモが日本を変える
を読み、ここで語られている「デモ」を「条例制定」と置き換えることができると思いました。「条例制定」とは、住民の、住民のための、住民による主権を行使するアクションだからです。

そこで改めて、次のことを、皆さんに訴えたいと思います。


   *****************

        「チェルノブイリ法日本版」の住民による条例制定が日本を変える

私は住民による条例制定のアクションをするようになってから、このアクションに関していろいろ質問を受けるようになりました。それらはほとんど否定的な疑問です。たとえば、「条例制定のアクションをして社会を変えられるのか」というような質問です。それに対して、私はこのように答えます。条例制定のアクションをすることによって社会を変えることは、確実にできる。なぜなら、条例制定のアクションをすることによって、日本の社会は、人が誰でも、普通に、条例制定のアクションをする社会に変わるからです。

では、日本には条例制定のアクショが少ないのか。なぜ、それが変なことだと思われているのか。それは、国民主権を、自分の力で、闘争によって獲得したのではないからで す。日本人は戦後、国民主権を得ました。しかし、それは敗戦によるものであり、事実上、占領軍によるものです。自分で得たのではなく、他人に与えられたも のです。では、これを自分自身のものにするためにどうすればよいのか。条例制定のアクションをすること、です。

私が受けるもう一つの質問は、条例制定のアクション以外にも手段があるのではないか、というものです。確かに、これ以外にも手段があります。そもそも選挙がある。その他、 さまざまな手段がある。しかし、条例制定のアクションが根本的です。条例制定のアクションがあるかぎり、その他の方法も有効である。条例制定のアクションがなければ、直接民主主義のアクションがなければ、それらは機能しません。今までと同じことになる。

今後に、チェルノブイリ法日本版の条例制定のアクションが下火になっていくことは避けられない。――と、いうふうに見えます。
しかし、違います。福島原発事故は、片づいていない。今後もすぐには片づかない。むしろ、今後に、被曝者の病状がはっきりと出てきます。また、福島の住民は永遠に郷里を離れることになるでしょう。つまり、われわれが忘れようとしても、また実際に忘れても、原発のほうが執拗に残る。それがいつまでも続きます。原発が恐ろしいのはそのことです。それでも、人々はおとなしく政府や企業のいうことを聞いているでしょうか。もしそうであれば、日本人は物理的に終り、です。

だから、私はこう信じています。第一に、チェルノブイリ法日本版の条例制定のアクションは長く続くということ、です。第二に、それは原発にとどまらず、日本の社会を根本的に変える力となるだろう、ということです。

皆さん、ねばり強く戦いを続けましょう。


2016年12月2日金曜日

2016年12月4日、宝塚市でチェルノブイリ法日本版条例の制定のための学習会を開きます

この学習会で喋った内容を元に、後日、書き上げた文章が以下です。
 →なぜ今、チェルノブイリ法日本版条例の制定なのか--チェルノブイリ法日本版その可能性の中心

交通事故に遭ったら、加害者は被害者の命、健康を救護する義務があります。それをしないでいたら(いわゆるひき逃げをしたら)救護義務違反の責任(最高で10年以下の懲役刑)が発生します。
だとしたら交通事故とは比較できないほど深刻な原発事故に遭った時、 加害者が被害者の命、健康を救護する義務を負うのは当然です。福島原発事故の加害責任を負う日本政府は、被害者家族が家族の命と健康を守るために汚染地帯から避難することを救護する義務を負うのは当然です。もしそれをせずにいたら、日本政府は救護義務違反の責任を問われても仕方ない(責任者は誰だ)。
こうした世にも不可解な事態が、311原発事故以来、日本に次々と発生している。
そのため最も被害を受けている人たちが泣き寝入りせざるを得ない世にも不条理な事態が次々と発生している。
こんな日本、おかしいんじゃないか。
根本から直していかなけりゃ、だめなんじゃないか。 
いろいろやることがあるんじゃないか。
‥‥などなど思っている人たちとそれを学びあう、語り合うのが今回のチェルノブイリ法日本版条例の制定のための学習会です。
                                              (以上、柳原敏夫)
◆日 時 12月4日(日)13:30~16:00◆場 所 西公民館 3F・セミナー室
◆テーマ 市民法「チェルノブイリ法」日本版について 
※どなたでも参加出来ます。参加費は無料です。

            ***************



2016年11月21日月曜日

科学技術を「科学の権威」を振りかざす者たちから我々市民の手に取り戻すために(2011.12.15)




かつて民主主義が到来する以前、「神の権威」が政治統治に利用され、神のお告げに基づいて政治決定がなされた(神政政治)。
しかし、今日、再びそれと同じ統治原理が科学の名のもとに行われている。「科学の権威」が政治統治に利用され、神の代わりに科学のお告げに基づいて政治決定がなされているからである。
かつて神政政治が政治の堕落を招いたように、科学の権威による統治も政治の堕落を招くのは必至である。それは狂牛病に端を発した2005年の米国牛輸入再開に至る一連のドタバタ騒ぎの経過を思い出せば一目瞭然である。ジャンク科学、似非科学が「科学の権威」の名のもとに政策決定の大義名分とされたからである。その結果、市民の胸中に、たとえ真相は藪の中だとしても、政治とリスク評価と称する科学に対する抜き難い不信感が一層形成された。しかし、このようなドタバタ劇は二度と反復してはならない。いつか途方もない人災の中に多くの人々を陥れるからである。それが3.11原発事故が私たちの頭に叩き込んだ最大の教訓である。
そのために、何をなすべきか。
かつて、人類は、神政政治の弊害の苦い反省から政教分離=「政治と宗教の分離」の原理が確立した。今日においても、科学の権威による政治の弊害を克服するために、これと同様の原理、政科分離=「政治と科学の分離」の確立が必要である。
しかも、この政科分離を絵に描いた餅ではなく、生きた原理として機能させるためにはこの原理を具体化する必要がある。それが「科学技術を我々市民の手に取り戻す」具体的な仕組みである。しかもそれは飽くなき利潤追求のために細分化・分断化・専門化された従来の科学技術ではなく、統合化、総合化され、循環・安全性を確保した科学技術である。「ローマは一日にしてならず」だが、3.11のあと、政科分離の壮大な取組みの最初の一歩がまもなくスタートする。それが「市民と科学者の内部被曝問題研究会」である。

       (「市民と科学者の内部被曝問題研究会」発足にあたってのメッセージ