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2017年11月24日金曜日

チェルノブイリ法日本版制定の市民運動のモデルの1つ:60年前、杉並で始まった水爆禁止署名運動

チェルノブイリ法日本版制定の市民運動のモデルの1つは、60年前、1954年、杉並で始まった水爆禁止署名運動だと思います。

原水禁運動は日本史上最大の市民運動です。その発端となったのが杉並で始まった水爆禁止署名運動です。出典「杉並で始まった原水爆禁止署名運動」

■ 瞬く間に集まった署名-その数は1ヶ月で26万。
             公民館講座室風景(中央 安井郁氏)

運動の中心となった安井郁館長は、公民館で学びはじめた主婦たちの読書会「杉の子会」や婦人団体協議会 (安井館長の呼びかけにより杉並の婦人団体が結集した組織)参加の42団体等をひろく横につなぎながら、この「杉並協議会」を核にして、原水禁署名運動に 取り組んでいきました。婦人たちは、お互いに区域の担当を決め、署名簿をかかえて、戸口から戸口へと署名を求めて歩いたと言います。納得して署名してもらうという丁寧さだったにもかわらず、一人で何千という署名を集めた人たちもいました。地域にねざす民衆運動(市民運動)の新しいタイプとして注目されるものでした。
 
195413日から始まった署名運動は、620日に259,508名に、624日には265,124名に達するという数字が記録されました。当時の杉並区人口は約39万、その7割に近い署名は驚くべき数です。二重署名を自戒していたし、他区の数字が若干含まれているとしても、地域からの平和運動に杉並区の住民が一丸となって取り組んできたことを数字は示しています。
             館長室で署名簿を整理する婦人たち

 原水禁運動の爆発的発展--ビキニ事件と放射能の脅威--
 日本の原水爆禁止運動は、1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験を直接の契機としてまきおこりました。20メガトンの水爆の実験によって発生した「死の灰」は、100キロメートル離れた公海上で操業していた静岡県・焼津の漁船「第五福竜丸」にふりかかり、これを浴びた23名の乗組員は全員、火傷・下痢・目まい・吐き気などの急性放射線症にかかり、そのうちの一人、久保山愛吉さんは同年9月23日、ついに手当の甲斐なく亡くなりました。「死の灰」の恐怖はそればかりでない。「第五福竜丸」の獲ってきたマグロから強い放射能が検出されたため、同海域で獲れた他の漁船の魚類も検査した結果、内蔵に放射能をもつものが発見されました。
 焼津、三崎港、東京や大阪の漁市場ではマグロの廃棄処分がつづけられ、魚屋や寿司屋は客が減って“マグロ恐慌状態”が生じました。東京の中央卸売市場はコレラの流行以来はじめてセリを中止するに至りました。
また、気流にのった「死の灰」は雨にまじって日本全土に注がれ、イチゴ、野菜、茶、ミルクの中まで放射能が発見されはじめました。こうしていまやアメリカの水爆実験は遠い彼方の問題ではく、身近な日常生活に直結していることを明らかにし、日本国民全体に大きなショックをあたえたのです。
 そしてこのことが人びとにあらためて「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆被爆の惨禍を思いおこさせる契機となった。アメリカの占領下にあって秘められていた国民一人一人の「戦争はいやだ」「ピカドンはゴメンだ」という厭戦・反原爆感情を一挙に爆発させたのです。

           水爆禁止署名運動杉並協議会ニュース(1954年年6月27日発行)

 「原水爆禁止」の署名運動は、全国各地で一斉に開始され、運動は火のように全国津々浦々の町、村、職場に燃え広がり、あらゆる市町村会議で「核実験反対」「核兵器禁止」が決議されました。
 そして各地域や職場で自然発生的に始められた署名を全国的に集約するセンターとして「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、12月には署名も2000万名を突破しました。

■ 原水禁世界大会の開催
 1955年1月、「署名運動全国協議会」の全国大会は、「8月6日に広島で世界大会を開く」ことを決め、5月にはこのための「日本準備会」が結成された。そして広島大会の目的と性格を 
(1)過去1年間の署名運動を総括し、世界の運動と交流して今後の方向を明らかにする。
(2)あらゆる党派と思想的イデオロギー的立場や社会体制の相違をこえて、原水爆禁止の一点で結集する人類の普遍的集会、
と規定しました。
 そして3000万署名と、1000万円募金を土台に、全国各地域、職場の代表五千名と、社会体制を異にする多くの国々からの代表が参加して、第1回原水禁世界大会が、8月6日広島で開催されました。B・ラッセル、シュバイツアー、J・P・サルトルなど著名な人々も全面的にこの大会を支持し、参加した被爆者が「生きていてよかった」と涙をながす光景さえみられました。
 第1回世界大会終了後、「日本準備会」と「署名運動全国協議会」が発展的に統合して生まれたのが「原水爆禁止日本協議会(日本原水協)」です。

■ 原爆反対の声は政府を動かし、世界に響く         
署名簿巻末「杉並アピール」と呼ばれる宣言の記載箇所 

 3000万人をこえる「原水爆実験禁止署名」は、これまでの日本の運動では最大の運動でした。これに参加した団体は、労組や民主団体だけではなく、むしろ保守的傾向の強い地域婦人会、青年団も含まれており、地方自治体もぞくぞく反対の決議を行ない、原水禁運動に協力した。また学術団体や社会団体(日赤など)や水産業界もこの運動を支持したのでした。
 これらの世論の高まりは遂に日本政府をも動かすに至りました。
 かつて吉田内閣は「日米安保条約のたて前上、アメリカの核実験には協力する」といっていたのが、鳩山首相は「原爆禁止に協力する」と言明するにいたりました。
 1956年2月には、衆参両院で「原水爆実験禁止決議」が採択され、同年10月には「原水爆禁止全国市会議長会議」が開催され、自治体ぐるみの運動が各地に広がった。
 1955年1月には、ウィーンで世界平和評議会の拡大理事会が開かれましたが、これには日本の原水禁運動の代表安井郁氏が招かれ、「原子戦争準備反対の訴え」(ウィーン・アピール)が採択されました。いまや核兵器に反対する世界的な連帯ができはじめたのです。

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