なぜ、憲法(正確に言うと、近代憲法)の本質が抵抗権なのか。
それは何よりもまず、近代憲法の歴史が証明しています。
(1)、18世紀に近代憲法が出現した時、そこで、抵抗権が人権の中核であることをはっきりとうたったからです。
「 政府は人民、国家または社会の利益、保護および安全のために樹立されるものであり、されるべきである。‥‥いかなる政府でもこれらの目的に反するか、または不十分であると認められる場合には、社会の多数の者は、その政府を改良し、改変し、または廃止する権利を有する。この権利は、疑う余地のない、人に譲ることのできない、また棄てることもできないものである。」(バージニア権利宣言3条)
「われわれは、次のような諸原理を自明だと考える。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、すべての人間は神より侵されざるべき権利を与えられている、そうした権利のうちには、生命、自由および幸福の追求が含まれている。
そして、その権利を確保するために、人々の間に政府が作られる。、政府の正当な諸権力は、被治者の同意に基づくものである。どのような政治政体も、これらの目的を害するようになる場合は、それを変更し、または廃止し、彼らの安全と幸福を実現するためにいちばん適当と考えられるような原理に基礎を置き、また、そういう形式でその権力を組織して新しい政府を作ることは、人民の権利である。以上の諸原理をわれわれは自明のものと考える。」(アメリカ独立宣言)
「すべての政治的結合の目的は、人の、時効によって消滅することのない自然的な諸権利の保全にある。これらの諸権利とは、自由、所有、安全および圧制への抵抗である。」(フランス人権宣言2条)
「圧制への抵抗は、他の人権の帰結である」(1793年6月24日フランス憲法33条)
「政府が人民の権利を侵害するときは、反乱は、人民およびその各部分にとって、もっとも神聖な権利であり、かつ、もっとも不可欠な義務である。」(同35条)
(2)、その後、19世紀の憲法から抵抗権は姿を消します。しかし、ファシズムの嵐が吹き荒れた第二次世界大戦のあと、近代憲法は再び、抵抗権が人権の中核であることをうたいました。
「 フランス人民は、1789年の権利宣言によって承認された人および市民の権利および自由‥‥を厳粛に再確認する」()1946年フランス第四共和制憲法前文)
「憲法に違反して行使された公権力に対する抵抗は、各人の権利であり、義務である。」(1946年ドイツ・ヘッセン憲法147条)
「憲法で確定された人権が憲法に反して公権力によって侵されたときは、抵抗は各人の権利であり、義務である。」(1947年ドイツ・ブレーメン憲法19条)
「道徳と人間性に反する法律に対しては、抵抗権が成立する。」(1947年ドイツ・マルクブランデンブルク憲法6条2項)
ひとたび姿を消した抵抗権がなぜ再び、憲法の中に刻み込まれたのか。それは、「すでに十分に確立したと思われていた自由主義的政治体制--したがって、その子である人権の保障--が、ファシズムの擡頭の前にあのように無力であったという両戦争間の貴重な(痛恨の)経験にかんがみて、人権の保障を少しでもより強化しとうという悲願」(宮沢俊義(※1)「憲法Ⅰ」138頁)に由来するものです。
第2に、それは理論的にみても、憲法にとって抵抗権の行使が不可欠だからです。
昔、埼玉の「I Love 憲法」ミュージカルで、参加者の人たちにこんな話をしたことがあります。
--皆さんは「I Love 憲法」「I
Love 憲法」とよく口にするけれども、しかし、振り返ってみて、憲法を愛するというのは一体どういうことなのでしょうか。それを真正面から考えたら、とても不思議なことではないでしょうか。
というのは、憲法を愛するというけれど、そもそも憲法は目に見えるものなのでしょうか、或いは、手で触ることができるものなのでしょうか。もし六法全書という紙に書いてあると言うのでしたら、それならば、その紙を燃やしてしまえは、憲法はなくなるんじゃないでしょうか。それとも、紙を燃やしてもなお存在するというのであれば、それはどのように存在しているものなのでしょうか。紙を燃やしてもなお存在するというそんなものを、手で触ったことがある人はいるのでしょうか。
要するに、そんな不確かな、訳の分からない代物を、愛するというのは、いったいどういうことなのでしょうか。
これについて、私は次のように思うのです。
私の妹がこのミュージカルに参加しています。彼女はこれまで専業主婦でずっと家にいました。しかし、そのうちに、何だかこれはおかしい、いつも家に縛り付けられるのではなく、私にももっと私なりの生き方があってもいいのではないかと思うようになりました。その中で、彼女は、この「I Love 憲法」のミュージカルを見つけました。ここは彼女にとって、新しい生き甲斐の場だったのです。しかし、彼女の夫は、このことを必ずしも歓迎しませんでした。家に、自分の元に置いておきたかったのです。しかし、彼女は、私にも自分なりの生き甲斐を求める権利があると思ったのです。だから、夫の反対を押し切って、それに抵抗して、ここに来ました。
これが憲法なのだと思うのです。
憲法では、いかなる個人にも、その人なりの幸福追求権を保障しています。しかし、それは、彼女が、夫の反対に抵抗してこの場に来るという行為を通じて初めて実現されるものなのです。
だから、彼女は、この場に来るという行為を通じて自分の人権を実現し、憲法を愛することを実行している、つまり、「I Love 憲法」を実行しているのです。
このような意味で、憲法の本質は何かといえば、それは個人の尊厳や平和的生存権や諸々の人権を踏みにじる侵害行為に対して「抵抗する」ことにあります。
だから、憲法は何処にあるのか? --それは、こうした人権侵害行為に抵抗する限りにおいて、それを実行するすべての市民の各自の胸の中にあるのです。
だから、市民の各自の胸の中にある憲法・人権は、市民ひとりひとりの心がそれを放棄しない限り、決して紙みたいに燃やすこともできなければ、暴力で踏みにじることもできなければ、法律で歪曲することもできないものなのです。
第3に、さらには、抵抗権は憲法の本質、人権の本質にとどまらず、私たちが生命として存在することに由来する「生きるということそのもの」だということです。
生命として存在すること(生物)とは何か。それは無生物とどこが違うのか。この問いに、私にとって最もピッタリ来た説明は次のものでした--自然界の法則であるエントロピー増大の原則は生物にも降りかかる。その結果、高分子は酸化され分断される。集合体は離散し、反応は乱れる。タンパク質は損傷を受け変性する。しかし、生物はこの法則を受け入れ、なおこれを受け入れない抵抗の仕組みを見つけ出し、実行した。それが、やがて崩壊する構成成分をあえて先回りして自ら分解し、このような乱雑さが蓄積する速度より速く、常に成分を再構築すること。このダイナミックな分解と再構築を実行する点に生物を無生物と分かつ最大の特徴がある(福岡伸一「生物と無生物のあいだ」166頁以下)。
生物が生物である所以とは自然界の法則であるエントロピー増大の原則に抵抗して秩序を自ら作り上げることにほかならない。この意味で、抵抗は生物であることの証(あかし)である。
だから、政府の圧制により人間らしく生きることを否定されるとき、「冗談じゃねえ!」とこれに抵抗することは、別に誰かから教わって学んだからではなくて、自分が生命ある存在であることそのものからやって来る根源的な反応なのです。
その意味で、抵抗をしないとき、或いは抵抗をやめたとき、生物は無生物または生きる屍(しかばね)になるしかありません。心の病気になるのは当然です。
結論:憲法を愛する、人権を愛するとは抵抗することであり、生きるということそのものです。
新しい人権の1つである「避難の権利」の保障を求める人たちは、憲法を愛する人たちであり、抵抗する人たちであり、生きている人たちです。
(※1)私の知る限り、抵抗権の問題を最も探求した人物は長野市出身の憲法学者宮沢俊義、美濃部達吉の弟子・後継者として、日本の憲法学界に最大の影響を残した保守本流の憲法学者です。
しかも宮沢は、単純な抵抗権の賛美者ではなく、抵抗権が濫用された場合の実際的危機を重々承知した上で、なおかつ抵抗権の必要性・不可避性について考えた人です。
《抵抗権の問題は、実定法(※2)の問題ではなくて、 実定法を越えた問題--法哲学の問題--である。単なる「法律家」の問題ではなくて、「人間」の問題である。》(憲法Ⅰ 166頁)
《個人の尊厳から出発する限り、どうしても抵抗権を認めないわけにはいかない。抵抗権を認めないということは、国家権力に対する絶対的服従を求めることであり、奴隷の人民を作ろうとすることである。》(同書 173頁)
(※2)社会で実際に制定され、適用されている法律のこと。自然法と対立して使われる概念。
(※3)(参考)->抵抗権実行=3.4新宿デモの呼びかけ(17.2.7)
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