「なぜ『憲法の本質・人権の本質は抵抗することつまり抵抗権にある』のか」
目 次
1、すべての人権は既に憲法に埋め込まれており、日本政府といえども、いかなる契約によってもこれを奪うことはできない。
(1)、全く新しい憲法の出現
(2)、すべての人権は近代憲法という貯蔵庫に保管されている
2、放射能災害における被ばくから避難する権利は人権であり、憲法で保障されている。
3、私たちは既に守られている。同時に、それを実現するかは私たち自身の手にかかっている
1、すべての人権は既に憲法に埋め込まれており、日本政府といえども、いかなる契約によってもこれを奪うことはできない。
(1)、全く新しい憲法の出現
国の基本法といわれる憲法は昔から存在しました(例えば聖徳太子が作ったとされる一七条憲法)。しかし、現在私たちの前にある憲法は名前は同じでも、昔からある憲法とは全くちがうものであることに注意する必要があります。それは、18世紀に至り、古来から存在する憲法を根本的に否定して出現した、全く新しい性格のものだからです(この新しい性格を有する憲法を近代憲法とよびます)。
では、近代憲法の全く新しい性格とはどんなものか。それは次の2つの点に現れています。1つは、法律の本質は「命令」であり、「人を殺してはならない」といった命令は普通、私たち市民に向けられたものです。ところが近代憲法の「命令」は誰に向けられたものか。それは私たち市民にではなく、国家に向けられたものなのです。それでは、国家に向けられたその「命令」とはどんな内容のものか。端的に言えば、それは「市民ひとりひとりは最高の価値が認められる人権を有している。この市民が有する人権を国家はぬかりなくしっかり保障しろ、決して市民が有する人権を侵害するなかれ」です。これが2つ目の特徴です。
「すべて人は、生まれながらにしてひとしく自由で独立しており、一定の生来の権利を有するものである。これらの権利は、人々が社会を組織するに当たり、いかなる契約によっても、その子孫からこれを奪うことのできないものである。かかる権利とは、すなわち財産を取得所有し、幸福と安全とを追求獲得する手段を伴って、生命と自由とを享受する権利である。」
人権とは国家といえども、また市民が自ら締結したいかなる契約によってもこれを奪うことはできない神聖不可侵の権利なのです。
(2)、すべての人権は近代憲法という貯蔵庫に保管されている
とはいっても、近代憲法の制定当時、すべての人権が近代憲法のカタログに書き込まれていたわけではありません。例えば核兵器が存在しなかった時代に、核戦争を前提にした人権侵害状況を想定して人権保障をすべて書き込むことは不可能です。
そこで、近代憲法は、この問題についてどういう態度を取ったのか。近代憲法は一方で、「人権が人が生まれながらにして自由で平等な存在であることに基づき認められる生来の権利で、日本政府といえども、いかなる契約によってもこれを奪うことはできない最高の価値を有するものである」と近代憲法が保障する人権の一般原理を明らかにしました。他方で、その当時、人権保障の必要が切実な課題となっていた個々の人権を取り上げ、これを近代憲法のカタログに書き込みました。法の下の平等(特権や世襲制の否定)、公正な刑事訴訟手続の保証、言論出版の自由、宗教の自由などです。ここに書き込まれた人権はその当時までに、宗教戦争など深刻な人権侵害が発生し、これに対し、人々がこれに抗議し抵抗し、人権侵害が起きないように人権保障の必要性を訴えた末に、それが認められ、近代憲法のカタログに書き込まれるに至ったものです。
そこで、近代憲法は、この問題についてどういう態度を取ったのか。近代憲法は一方で、「人権が人が生まれながらにして自由で平等な存在であることに基づき認められる生来の権利で、日本政府といえども、いかなる契約によってもこれを奪うことはできない最高の価値を有するものである」と近代憲法が保障する人権の一般原理を明らかにしました。他方で、その当時、人権保障の必要が切実な課題となっていた個々の人権を取り上げ、これを近代憲法のカタログに書き込みました。法の下の平等(特権や世襲制の否定)、公正な刑事訴訟手続の保証、言論出版の自由、宗教の自由などです。ここに書き込まれた人権はその当時までに、宗教戦争など深刻な人権侵害が発生し、これに対し、人々がこれに抗議し抵抗し、人権侵害が起きないように人権保障の必要性を訴えた末に、それが認められ、近代憲法のカタログに書き込まれるに至ったものです。
この意味で、近代憲法は、すべての人権をカタログに書き込むことはせず、未来の状況の変化により新たな人権侵害と認められる事態が発生したときに、人権の一般原理に照らして新たな人権侵害の防止のため、これを新たな人権として近代憲法のカタログに追加して書き込むことにしたのです。
その有名な出来事が第一次世界大戦以後に登場したワイマール憲法をはじめとする一連の近代憲法です。そこには、かつて近代憲法が保障した「私有財産制の絶対化」がその後、深刻な貧富の格差をもたらし、人々の生存を脅かすに至ったことを受けて、人々がこれに抗議し抵抗し、各人に人間的な生存を保障するように訴えた末に、人間的な生存を保障する人権が認められ、近代憲法のカタログに追加して書き込まれるに至ったのです。これが社会権と総称される生存権、労働権などの新しい人権の誕生です。
近代憲法とは個人の尊厳が脅かされる場合にそれを回復するためにたえず進化する生命体のような存在なのです。つまり、新たな人権侵害状況が発生した時、それにより損なわれ、脅かされる市民の生命、自由、平等の人権を回復するために、新たな人権が近代憲法のカタログに追加して書き込まれることを前提にしているのです。
くり返すと、近代憲法は誕生と当時に最初から、人権の一般原理(人権とは人が生まれながらにして自由で平等な存在であり、それはいかなる状況においても変わることのない至高の存在であると承認して、この存在に基づき認められる生来の権利である)に基づきすべての人権を保障するものであり、その上で、個別に書き込まれた人権は、その時々の状況において発生した人権侵害を防止するために具体化されたものでした。日本国憲法が人権の総則規定で、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」(11条前段)と定めたのもこのような意味です。言ってみれば、近代憲法という貯蔵庫には最初からすべての人権が保管されている。私たちはその都度必要に応じて、憲法という貯蔵庫から必要な人権を取り出り、その出動により私たちの生命、自由、平等を脅かすものから私たちを守るのです。
2、放射能災害における被ばくから避難する権利は人権であり、憲法で保障されている。
原発事故などの放射能災害は近代憲法がこれまで想定していなかった過酷な人権侵害状況です(これを想定している近代憲法はチェルノブイリ原発事故後に制定されたウクライナ憲法くらいです)。だから、近代憲法が放射能災害により発生した人権侵害を防止するために明文で人権保障の規定を置いていないのは当然です。しかし、だからといって、近代憲法はこの事態を無視することはできません。なぜなら、近代憲法の最大の使命は私たちの生命、自由、平等を脅かす全てのものから私たちを守ることにあるからです。原発事故が私たちの命、健康、暮らしを根底から脅かす、未曾有の大惨事であることは周知の事実です。従って、この新しい人権侵害状況に対して、近代憲法は、被害者の命、健康、暮らしを守るため、被ばくから避難して、命、健康、暮らしを保障する人権(以下、避難の権利をよびます)を認め、近代憲法のカタログに追加して書き込む必要があります。
この意味で、放射能災害において被ばくから避難する権利は人権であり、憲法で保障されているのです。
なお、ウクライナ憲法のように明文で追加して書き込まれるか、それとも解釈で追加して書き込まれるかということは法の技術的なことであって、本質には関係ありません。本質的に重要なことは、原発事故という過酷な人権侵害状況が発生した以上、既に憲法という貯蔵庫に保管されている避難の権利が憲法から取り出され、出動することにより被害者の命、健康、暮らしが守られるということです。
だから、福島原発事故の被害者の人たちは、安全神話のもとで原発事故を想定外としていた日本の法制度の下において明文の規定がなくとも、避難の権利は人権であり、憲法で保障されているものであるとして、日本政府に対し、この人権保障を誠実に実行しろと要求することができるのです。
だから、福島原発事故の被害者の人たちは、安全神話のもとで原発事故を想定外としていた日本の法制度の下において明文の規定がなくとも、避難の権利は人権であり、憲法で保障されているものであるとして、日本政府に対し、この人権保障を誠実に実行しろと要求することができるのです。
以上の通り、近代憲法の理念からは、米沢「追い出し」訴訟は既に勝負はついています。
3、私たちは既に守られている。同時に、それを実現するかは私たち自身の手にかかっている
このように、近代憲法の理念によれば、原発事故のように人々の命、健康、暮らしが脅かされるという深刻な人権侵害状況が発生した場合、憲法は本来的に(自動的に)、人権侵害状況から人々の命、健康、暮らしを守るために、必要な人権が憲法から取り出され、発動されることになります。
次の問題は、これが理念だけではなく、現実にも自動的に実行されるかです。
これが憲法の最大の難問「人権宣言の実効性をいかに担保するか」という問題です。人権宣言も現実に実行されない限り、そこに書き込まれたどんな人権も絵に描いた餅に終わります。そのため、人類はこれまで実効性を担保する方法を模索してきましたが、世界史が教えることは、人権侵害状況が発生した場合に人権保障を発動させる根本的な力となるものは人民の抗議、抵抗という行動にあるという歴史的事実です。その事実は近代憲法誕生の際にも、またファシズム打倒後の世界人権宣言の制定の際にも高らかに宣言されました。
この意味で、米沢「追い出し」訴訟は憲法の理念からは勝負はとうについていますが、さらに、これを現実にも勝負をつけるために、それを実現する根本の力は避難の権利の深刻な侵害に対し、この人権侵害が起きないように人権保障の必要性を訴える人民の抗議、抵抗という行動をすることにあります。
正義が抵抗する者の側にあるとき、抵抗は止むことはなく、抵抗が止むことがない限り、どんな紆余曲折があろうとも、いつか必ず承認される時が訪れる。これが人権の歴史が証明する法則です。
私たちは既に守られています。粘り強く抵抗を続けましょう。
最後に、この避難の権利を具体化したものがチェルノブイリ法日本版です。私たちは今、チェルノブイリ法日本版の制定を実現する取り組みを進めています(※)。チェルノブイリ法日本版の制定の行方は、米沢「追い出し」訴訟の行方と運命をともにするものであることを痛感しています。
避難の権利が人権であることを現実のものにするため、ともに粘り強く頑張りましょう。
私たちは既に守られています。粘り強く抵抗を続けましょう。
最後に、この避難の権利を具体化したものがチェルノブイリ法日本版です。私たちは今、チェルノブイリ法日本版の制定を実現する取り組みを進めています(※)。チェルノブイリ法日本版の制定の行方は、米沢「追い出し」訴訟の行方と運命をともにするものであることを痛感しています。
避難の権利が人権であることを現実のものにするため、ともに粘り強く頑張りましょう。
[1] 人類の歴史に奇跡が存在し得るとしたら、近代憲法が出現したことは奇跡の1つであり、これはまた真の希望の1つである。
(※)なぜ今、チェルノブイリ法日本版条例の制定なのか
中間報告:【チェルノブイリ法日本版】伊勢市条例(柳原案)
日本からのメッセージ(2017.6)
チェルノブイリ法日本版の条例制定を一緒にやりませんか
(※)なぜ今、チェルノブイリ法日本版条例の制定なのか
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