2月25日、予定通り、光塾講演会(後半)「さよなら孤独、気立てのよい喜怒哀楽の法、チェルノブイリ法日本版制定への道」をやりました。以下、その講演動画と講演資料と補足のコメントです。
前半
◆◆「臨床医が語る、原発事故からの7年 ―子どもの甲状腺がんは?健康被害は?」◆◆ ●牛山元美さん(さがみ生協病院 内科部長 3.11甲状腺がん子ども基金 顧問)
牛山さんの講演資料-->こちら 後半◆◆「さよなら孤独、気立てのよい喜怒哀楽の法、チェルノブイリ法日本版制定への道」 ◆◆
●柳原敏夫(ふくしま集団疎開裁判 元弁護団長)
柳原の講演資料-->こちら ◎講師二人の意見交換と質疑応答 ※ なお、柳原の講演内容で十分話せなかった点について、以下に補足します。 それは、22日のチェルノブイリ法日本版の講演会(アドボカシー・カフェ)の最後で投げかけられた以下の発言です。 「日本は、いくら立派な法律をつくっても、憲法を平気で踏みにじる人が首相をやっているような国。その首相を選んでいるのが日本の国民。そんな国で、いくら立派な法律つくってどうすんのよ!」 とても印象的な発言で、私もこれが311以来、日本の市民運動が直面している普遍的な課題だと感じてきました。311以来、日本の市民運動は基本的に負け続けているからです。だから、この問いにどう答えるか。これがチェルノブイリ法日本版の制定運動が直面する最大の課題の1つ(殆ど唯一の課題)だと思います。
そこで、この日の講演会で、この問題提起に対して自分なりに考えたことを喋りました。以下はそのメモです。
また、この問いに対する1つの答えとして(たとえこれに万の反論があるとしても)、一昨日、以下の新しいブログをスタートしました。
「もうひとりの日本人は可能だ」
→なぜ可能なのか。 忘れられた巨人「中世の民衆」の可能性を 再発見、再定義するために
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市民立法のロードマップも条例モデル案もカタチになった。そこで次に必要なことは、そのカタチに魂を入れること。その入魂の力がないとカタチはあっても前に進まないから。
つまり、市民立法を推進するために、私たちはその力を手に入れる必要がある。力とは何か。
思うに、その力を得るためには、現状を正しく認識し、正しく絶望する必要がある。
311以後、あらわになったのは民意(主権)を反映しない議会制民主主義の機能不全、崩壊現象。
そこから今、多くの人たちは「民主主義の敗北・絶望から民意(主権)の敗北・絶望」の気分に陥っている。
しかし、それは「正しい絶望」ではない。
議会制民主主義の敗北は主権者の敗北などではなく、人々が主権者であることを棄てたことに対する懲罰にすぎない。
もともと議会制民主主義は人々が主権者であることを発揮し続けて初めて機能するあやういもの。
これが正しい絶望ではないか。
この正しい絶望から引き出せる結論は、議会制民主主義が敗北・廃棄されようが、私たちは主権者であることをやめないし、やめるわけにはいかない、これを取り戻す。
これが新たな民主主義の観念、市民立法の精神、そして私たちの決意だ。
市民立法とは壊れゆく日本の中で、主権者であることを取り戻す新たな民主主義の運動。
だから、市民立法の原動力は議員でも首長でもない、私たち市民ひとりひとりの手にかかっている。
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