2015年5月20日水曜日

沖縄の農民「阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)」さんの言葉(2015.6.20)

◎--キューバとペルーに出稼ぎに行き、無一文で帰国したあはごんさんが、京都の一燈園の西田天香さんのもとを尋ね、そこがすっかり気に入って同人になりたいと申し出た時、西田さんから「沖縄に帰って農業をした方がいい」と言われます。
それで、あはごんさんは「自分は、身体も弱く、土地もなく、農業の経験もない」と言ったら、こういわれたそうです。
「土地も経験もいらない。ただ1つ大切なことは、あなたが私欲のために働くか、それとも社会のために働くか、それによって成功するか失敗するか決まる。社会のために働くならばすべて必要に応じて与えられる」と。
                                    (「米軍と農民」11頁)


◎--だが、どんなに闘ってもなかなか基地はなくならない。戦争の準備はやめさせられない。しかも、今度は核戦争の準備をしておる。‥‥もし核戦争がおきたら、この地球にはもう住めないという、これは大変なことだ、それなのにこの戦争準備をとめられないのか。闘いを続けながらも、無力感を持ち、悩みました。
そうしたらですね、1959年のことでしたが、世界人権連盟議長のボールドウィンさんが那覇に来た。‥‥わしらは、「日米政府はわしらの家を焼 き、農民を縛り上げ、土地を取り上げて、核戦争の準備をしておりますが、これを止める方法がありましたら教えて下さい」と質問したのです。
どんなむずかしいことをいうか、と思っていたら、ボールドウィンさんの答えは簡単でした。
「みんなが反対すればやめさせられる」
こういわれたのです。わしらは考えました。みんなが反対すれば戦争はもうできないんだ、「ああ、これはそのとおりだ」とわしは納得しました。
わしが、自分の土地を基地に使わせないための闘いを続け、そして反戦平和のための運動を続ける上で、このことばは実に大きな支えとなったのであります。
                                   (「命こそ宝」11~12頁)


◎-- 真謝(まじゃ)農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことを語ろうとしません。思い出 すだけでも気が狂うほどの苦しみでありました。それと同様に、戦後の土地取り上げで米軍が襲いかかってきた当時のことも、話したがりません。みな、だまっ ています。 真謝(まじゃ)農民はたたかいました。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのでした。
だがその苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません。
                                   (「米軍と農民」18頁)


◎--かつてわしは、『米軍と農民』のはじめにこう書きました--伊江島の人は誰も戦争のことを語りたがりません。戦後の土地とり上げでアメリカ軍が襲いかかっ た当時のことも、語りたがらない。思い出すだけで気絶するほどの苦しみでありました。だが、その苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません --
その思いはいまもかわりません。なおいっそう強くなっております。命が粗末に扱われてはいけない、どうしても平和でなければいけない、つらくても語り伝えなければならない。
                                   (「命こそ宝」14頁)

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 福島の人たちも変わらない。原発事故のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでした。
それと同様に、事故後の「事故と被害を小さく見せる」ために襲いかかってきた数々の政策のことも話したがりません。みな、だまっています。 福島の人々は抵抗しました(福島県の健康管理調査に対して、23%しか回答しませんでした。国連人権理事会から日本に派遣された特別報告者も「大変低い数値」と指摘するほどです)。
だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのです。
だがその苦痛をふくめて、やはり福島の人たちは話さなければなりません。でなければ、福島でまた再び、広島、長崎、沖縄、伊江島、チェルノブイリの悲劇をくり返すことになるからです。

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