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2015年5月27日水曜日

動的平衡から眺めた世界史:百万人の預言者の出現(2011.2.4)

                                           2011.2.4  柳原敏夫


言語学者ノーム・チョムスキーは、昨年12月チュニジアの一人の若者の抗議の焼身自殺に端を発して発生した中東の民衆の抗議行動について、2月2日次のようにコメントしている。

‥‥what’s happening is absolutely spectacular. The courage and determination and commitment of the demonstrators is remarkable. And whatever happens, these are moments that won’t be forgotten and are sure to have long-term consequences.  

 強権的な独裁者に支配されるエジプトで、これといった指導者もいない中で、瞬く間に百万人規模の抗議デモが出現したというのは、absolutely spectacularであり、殆ど奇跡のように思える。だから、チョムスキーは、たとえ抗議行動の未来は紆余曲折は避けられず予測困難だとしても、それは永遠に記憶されるべき出来事だと断言する。


では、どのような意味で、それが「永遠に記憶されるべき出来事」なのだろうか。私には、ここに「世界史の構造」の最も重要な瞬間が開示されているように思える。


テレビに登場する抗議行動の民衆の表情は確信にあふれていた。しかし、指導者なき民衆は、強権的な独裁者の抑圧をものともしない確信を一体どこからどうやって手に入れたのだろうか?人間以外の霊長類の群れなら、もし強権的なボスの抑圧があったとしても、このような抗議行動には出ないだろう。このような確信に満ちた反抗をしないだろう。「確信に支えられた抗議行動」が人類に特有なものだとして、人類は、別に誰かに教えてもらわないにもかかわらずそれをどうやって手に入れたのだろうか?

この謎を解き明かしてくれたのが、昨年出版された柄谷行人著『世界史の構造』に登場するキーワード「抑圧されたものの回帰」だった。「抑圧されたものの回帰」とは、人類の世界史に登場した3つの交換様式(さしあたりA・B・Cとよぶ)の次に来る、未来の交換様式D、これをもたらす力として捉えられていた。すなわち、世界史の最初の交換様式A「互酬性(贈与と返礼)」を支配原理とする氏族社会(ここでは贈与の力に支配されている)、そのあと登場した交換様式B「略取と再分配」を支配原理とする国家社会(ここでは暴力の力に支配されている)、さらにそのあと登場した交換様式C「商品交換」を支配原理とする資本制社会(ここでは貨幣の力に支配されている)に対し、それらを超えるものとして、交換様式Dを支配原理とする未来社会が構想されており、この来るべき交換様式Dとは交換様式Aの「互酬性」を高次元で回復するものとして捉えられていた。それはかつての氏族社会の支配原理であったにもかかわらず、その後、交換様式B・Cによって抑圧されてきた交換様式Aの「互酬性」を取り戻すという意味で、抑圧された交換様式Aの回帰だった。その端的な例が古代国家に普遍宗教として出現したユダヤ教である。エジプトで生まれた羊飼いモーセのところに、ある日神が現われ、エジプトの国家社会のもとで虐げられ、苦しんでいる民を救うように命じ、モーセは逡巡の末これを受け入れた。しかも揺るぎない「確信」として受け入れた。なぜなら、それは、人類がかつてお互いを等しくかつ独立して存在する者として認めてきた、砂漠で過ごした遊牧民的な生き方や武装自弁の農民の生き方を取り戻すことであったから。そこでは富や権力の偏在や格差を認めなかった。こうして、平凡な民衆の一人モーセは富や権力の偏在は「不正」として退場すべきであり、独立性と平等性の倫理を回復せよという「正義」を語る預言者に劇的に変貌を遂げたのである。


この意味で、モーセの変貌はひとりモーセにだけ特有なものではなかった。かつて、富や権力の偏在や格差を認めず、独立性と平等性の倫理が貫かれていた氏族社会の時代を経験してきた人類はその後も記憶の中をこれを深く刻み込んできたからである。だから、その後、抑圧や貧困や差別に苦しめられてきた多くの人々が、モーセの教えを聞いたとき、モーセと同様の体験=抑圧されたものの回帰を経験し、「人間生来の生き方」として独立性と平等性の倫理を回復せよという「正義」を受け入れたのである。


この「抑圧されたものの回帰」という経験がモーセから3000年経過した紀元後18世紀に至っても続いたことは、当時のアメリカ市民革命(独立戦争)と人類で最初に出現した人権宣言の記録からも明らかである。

「すべて人は、生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有するものである。これらの権利は、人民が社会を組織するにあたり、いかなる契約によっても、その子孫からこれを奪うことのできないものである。」(1776年のヴァージニア権利章典1条)

「国家は、人民、国家もしくは社会の利益、保護および安全のために樹立される。‥‥いかなる政府も、これらの目的に反するか、または不十分であると認められた場合には、社会の多数の者はその政府を改良し、改変し、または廃止する権利を有する。この権利は疑う余地のない、人に譲ることのできない、また棄てることのできないものである」(同3条)


 この人権宣言の起草者たちは、「すべて人は、生来ひとしく自由かつ独立して」いると確信したとき、意識せずして、独立性と平等性の倫理を回復せよという「モーセの教え」に回帰していたのである。

それから2世紀近く経って我が国に出現した憲法9条も同様である。「モーセの教え」を徹底化し、独立性と平等性を真に実現しようとしたら戦争放棄抜きには考えられないからである。憲法9条が奇跡に見えるとしたら、それはちょうど古代国家において「モーセの教え」が奇跡に見えたのと同様である。その「モーセの教え」がのちに人権宣言として実現されていったように、憲法9条も将来実現される運命にある。


それから半世紀以上経って、中東に世界史上初めて民衆による市民革命の機会が訪れたとき、民衆の胸の中に、富や権力の偏在や格差は認めない、独立性と平等性の倫理を実現せよという「正義」が響き渡っていたのは偶然ではない。それはちょうどヴァージニア権利章典や日本国憲法の起草者たちが意識せずに「モーセの教え」に回帰していたように、中東の民衆もまた知らずして「モーセの教え」に回帰していたのである。だから、先日の百万人規模の民衆の抗議行動は、平凡な民衆の一人だったモーセが「正義」を語る預言者に劇的に変貌したように、百万人の預言者が出現した劇的な出来事であった。その意味で、これは「抑圧されたものの回帰」の巨大な出現として「永遠に記憶されるべき出来事」なのだ。


実は、これは分子生物学のひとつの貴重な成果、「動的平衡」を思い出させる。元来、生命現象は動的平衡つまり絶え間なく動きながら、できるだけ或る一定の状態=平衡を維持しようとする。生命現象に対する内外からの様々な影響・介入に対しても、動的平衡の「揺り戻し」は必然である。それらの影響・介入によって、いっとき別の状態に変化することがあっても、生命現象はそこにとどまることはなく、押せば押し返してくる、沈めようとすれば浮かび上がろうとして「揺り戻し」を起こす。その「揺り戻し」は偶然ではなく必然である。そして、このような「揺り戻し」は生命現象に限られず、人間社会にも当てはまる。それが「抑圧されたものの回帰」であり、今回の中東の民衆の抗議行動である。但し、どのような条件が備わったときに、どんな「揺り戻し」「回帰」になるか、そのメカニズムがある筈である。このメカニズムの探究の中から、今後これらの条件を整えることに努めることによって、未来における民衆の「抑圧されたものの回帰」の巨大な出現をサポートすることが可能となるだろう。


世界史のもう1つの課題として、「抑圧されたものの回帰」の継続と発展のメカニズムを解明することがある。「抑圧されたものの回帰」は出現さえすれば、あとは自動的に順調に成長・発展するものではないからである。むしろ、必ず、別の「揺り戻し」がやってきて、その成長・発展を阻害しようとする。これは普遍宗教の限界の克服でもある。普遍宗教は出現したのちに普及すると共に国家の宗教、共同体の宗教に変質・堕落したからである。それは独立性と平等性を主に倫理の次元でもたらしたものであっても、政治的、経済的システム(客体)の次元やそのシステムを担う市民(主体)の次元でもたらすものではなかったからである。だとすれば、世界史の今後の課題は、政治・経済のシステムとその担い手の次元において、どのような条件が揃えば、独立性と平等性が回復されるのかを探究し、そして実行に移すことである。新聞は中東の民衆の抗議行動は持久戦に入ったと報じた。が、それはもはや独裁者が引き続き居座るといった次元の問題ではなく、「持久戦」の真の意味とは「抑圧されたものの回帰」の継続と発展に向けて中東の民衆が世界市民と手を携えて、終わりなき取り組みに踏み出したということである。                            
                                   (2011.2.4柳原敏夫)

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