2014年5月8日木曜日

父の涙、そして逃げる勇気(2014.2.28)


父の涙、そして逃げる勇気
                                                                          柳原敏夫
先日久しぶりに、ふくしまの子どもたちの避難支援のためのイラスト作成をお願いしに、ちばてつやさんにお会いしたとき、開口一番、「お父さんがお亡くなりなったそうで」と言われました。
「大地の子」のように、幼年時代、満州で九死に一生を得て帰国したちばさんには、同じ境遇を生き延びた親父のことが他人事には思えなかったのではないかと思いました。
明日の一周忌を前に、カミさんが、文集を編集し、父の写真を沢山掲載しましたが、その沢山の写真を眺めていて、あらためて、そこには決して収まることのなかった、終戦直後に満州平野を逃げ延びるときの父の姿が、脳裏の中で思い出されてなりませんでした。

1917年に新潟県佐渡島に生まれた父は、戦前、生来の人柄と大陸での生活のおかげで、能天気でお人好しの見本でした。それが終戦の1ヶ月で豹変しました。それまで、満州鉄道の職員として植民地生活の特権の端くれを享受していた父は、終戦前夜に至っても、大本営発表をうのみにして避難もしなかったふつうの人だった。しかし、8月9日、ソ連参戦の報と同時に現地招集されて事態が一変した。ろくな装備もないズサンな軍隊としてソ連兵と向かい合う羽目となり、偶然にも命を落とさず終戦1週間後に武装解除を迎えたが、今度はソ連兵に捕まってシベリア抑留になるまいと、ドブネズミのように満州平野を逃げ回る羽目となったからです。
このとき、父は初めて思い知ったそうです――自分は、軍の将校たち戦争推進者たちが逃げのびるための「盾(たて)」として召集され、ソ連兵との戦闘の最前線に立たされたのだ。自分はただの兵士ではないのだ、いけにえにされたのだ!と。
しかし、父の目の前にあるのは、途方もない満州平野だけで、自分を救ってくれるものは何もなかった。絶望する理由と現実はあり余るほどあった。にもかかわらず、彼は絶望しなかった。昼間は草原に身を隠し、夜間に行動して、1ヶ月後に中国撫順市に辿り着いたからです。でも、どうして? なぜ絶望しないで、逃げ続けられたの?それは長い間、私の謎でした。それは奇跡としか思えなかったからです。
しかし、父はこのとき、一度、死んだのです。だから生き延びられたのです。それまでの自分の無知を恥じ、「無知の涙」を流したからです。それまで行儀よくしつけられ、学校で社会で大本営発表をうのみにする羊のようにマインドコントロールされてきた自分を殺したのです。羊からドブネズミに生まれ変わったのです。
そして、ドブネズミに生まれ変わった彼の心を支えたのは「永遠の子どもらしさ」だった。彼はこのとき、子どもに生まれ変わったのです。この世で最強の者は子どもです。なぜなら、子どもには未来しかないからです。生きたい!という無条件の渇望しかないからです。世界一過酷な環境を父が生き延びれたのは生きたい!という渇望に支えられたからです。

このとき、もし父が絶望していれば、その後、私の命も、私の子どもの命も、昨年生まれた孫の命もありませんでした。いま、私が、子どもが、孫がこうして生きていられるのは、このとき父が絶望せず、逃げ延びてくれたからです。私は生まれて初めて、父の勇気に対し、そして先祖の勇気というものに対し、感謝の念を抱くことを知りました。
私たちが住む社会システムがタイタニック号と同じく、沈没することが時間の問題となった現在、沈没したあとに生き延びる私たちのために、父が残してくれた「父の涙と逃げる勇気」が最大の遺産であったことを痛感しています。                                                                                  
20142.28

※父のHP(オイの愉しみと闘い

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