故人にたいそう失礼なことだが、18日の朝刊で早坂暁の訃報に接したとき、口をついたのは「えっ、彼、まだ生きてたの?」だった。私の中で、彼はとっくに亡くなっていた。この間、ずっと彼の話題を耳にしていなかったし、何よりも病気ばかりしているイメージがあったから。
早坂暁の名を知ったのは、 1981年9月にNHKの、若山富三郎演じる弁護士シリーズ「事件」を観た時だった。被告人のケーシー高峰の演技に息を飲んだ。その翌年の「事件」も観た。被告人の松田優作の演技にも、これがあの松田優作かと我が目を疑うほど目を見張った。そのドラマのあと、私はかねてからの志望だった裁判官になるのを諦め、デモシカ弁護士になった。やることがなく、昼休みと称して、何時間も三四郎池に寝そべる毎日だった。或る時、NHKの「事件」の法律監修を日本弁護士会連合が担当している話を聞き、監修担当を申し出たが、早坂暁がとうとう続編を書かなかったため、実現しなかった。そのあと、私はこのあこぎな業界に嫌気が差し、足を洗おうと遺書を書き、準備を進めていたところ、降って沸いたように、NHKの仕事が舞い込んだ。大河ドラマの著作権裁判だった。
フラフラと仕事に戻り、ドラマの著作権裁判の準備をしたが、シナリオが分からないとどうにもならないと知り、シナリオ教室に通い、担任のブルドックのような石堂淑朗氏から早坂暁の話を聞かせてもらった。
「早坂はメチャクチャ優秀です。しかし、演出家がアホたれです」
シナリオの本も片っ端から読んだ。演劇理論とかこの業界特有の面倒くさい作法があって、立ち往生しているときに、早坂暁のシナリオ「夢千代日記」を読み、えっ、これがシナリオかと思った。シナリオ作法を無視した、好き放題のスタイルにビックリした。19世紀初頭の長崎を舞台にしたドラマ「びいどろで候」の解説--鎖国中の日本と国交があったオランダの外交官は、本国がナポレオンに征服され消滅した時、自分たちの身分を江戸幕府にどうごまかしたか、その後、ナポレオンが失脚し、彼の処遇に困った欧州列強がオランダ経由で日本に島流しを決めた結果、この贈り物に大騒ぎとなる江戸幕府・・・を読んだとき、えっ、なんて面白いストーリーだろうと思った。それが早坂暁の脚本だった。ドラマ業界の人たちの話の本を読んだときも、早坂暁の話(※)はずば抜けていた。彼自身も「業者じゃない。同じことをやっているとつまらなくなる。アマチュアです」と言った。しかし、彼は謙遜していたのだ。彼は、「吾輩は猫である」を書き、当時の業界(文壇)の人たちからプロとして不純だとアマチュア扱いされていた夏目漱石に似ていた。夏目漱石と同様、彼こそ、業界の人たちが失ったドラマの原点に還り、そこから作品を書いたのだ。一方で彼は自分が怠け者であることを深く自覚し、怠け者でも書くべきこと、書きたいことを書いた。だから、それは自分が書いたのではないことを分かっていた。彼に作品を書かせたのは「僕を産んでくれたおっ母さんが書かしている」とも、原発投下直後の広島で聞いた「赤ン坊の泣き声」だった。だから、漱石と同様、死ぬまで書き続けることができた。
1990年11月、この大河ドラマの著作権裁判の天王山とも言うべきプロデューサーの証人尋問があり、私はこれまでの仕事の総決算にする積り取り組み、幸い結果は上々、回りは大喜びだった。しかし、私は、これがうまくいったらどんなに嬉しいだろという当初の予想に反し、回りの興奮に反比例しどんどん醒めていった。私は「これは違う、ここには自分が求めている宝はない」とこのとき自分に訪れた感情を受け入れた。40歳の誕生日に事務所を店じまいして、著作権の仕事とおさらばし、数学のニセ学生になった。それと共に早坂暁とも迂遠になった。しかし、実は知らずして、この後こそ彼の生き方に最も影響を受けていたのだ。
3日前、早坂暁の逝去を知ったとき、私は、チェルノブイリ法日本版を市民の手で制定するというプロジェクトを本格的にスタートさせる準備中だった。彼の訃報から、自分がこれまで、いかに彼から深く影響を受けてきたか、「ニュー・シネマ・パラダイス」のトトのように思い出した。そして、このプロジェクトは早坂暁からの贈り物だと分かった。それは同時に、福島原発事故直後の汚染地の中にいた赤ン坊の泣き声からの贈り物だった。
赤ン坊が生きているように、早坂暁は今も生きている。
(※)「テレビドラマ紳士録」(映人社)1982年初版
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