「おまえのは概念法学だ。子どもの命が危ないのに救済しなくてよいはずはない。原子力ムラではそう考えないと言ったって、そんなことは理由にならない。問題の実質をよく見ろ。そのようなばかばかしい理由づけをするなど、もってのほかである。そんなことをするような人間は法律家をやめてしまえ。」
稀有な法学者である末弘厳太郎がもし生きて福島原発事故を体験し、「被ばくにより子どもたちの命・健康が危ないことは認めるが、小中学校を設置する郡山市には子どもたちを避難させる義務はない」と子どもたちの申立てを退けたふくしま集団疎開裁判の仙台高裁の2013年4月24日決定を読んだなら、80年前と同様、きっとこう言っただろう(その理由は後述のとおり)。
そして、チェルノブイリ法日本版を「あって当たり前。なくては生きていけない水や空気のようなものだ」と無条件に支持したでしょう。
そして、末弘厳太郎の弟子たちの川島武宜、戒能通孝もきっと同様に支持するだろうと確信します(その理由も近く書きます)。
そして、このコトバは、ひとり仙台高裁の裁判官に向けられたものではなく、全ての法律家と市民に向けて突きつけられた言葉です。
末弘厳太郎
以下は、末弘厳太郎がなぜ冒頭の言葉を吐いたと思うのか、その理由を述べた「『命こそ宝』という正義を求めて 」( 雑誌「法学セミナー」2014年2月号掲載)です。
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『命こそ宝』という正義を求めて
1、はじめに
福島原発事故は日本史上最悪の人災です。それは事故後私たちを襲ったのが大量の放射性物質だけでなく、大量のマインドコントロールされた情報だという意味で。それは「不幸を忘れたい」という私たちの弱味につけ込み、事故を限りなく小さく見せ、人々を来るべき惨劇の扉の中に閉じ込めるものでした。他方、原発事故は「目に見えず、臭いも痛みもせず、被害の医学的解明も不十分な理想的な毒」による人災です。この未知との遭遇のため、我々の五感に写る光景は、3.11後もその前と変わらず、これがどれほどの惨劇をもたらすか普通に考えても誰も分りません。生き延びるためには、この欺瞞を見破ることが不可欠でした。その唯一の手段が視差の中で考えること、つまり2つの異なる立場から観察・比較し、その結果がもたらす「強い視差(ずれ)」を吟味することだとカントは指摘しました。それがチェルノブイリ事故との対比、3.11後の国や専門家の発言と3.11前のそれとの対比、安全・安心を口にする国・福島県の要人とその家族の実際の行動との対比です。その対比から見えてきた「強い視差」が福島の真実を誰の目にも分かる形で明らかにしました。それを最も徹底しようとしたのが「ふくしま集団疎開裁判」です。
その結果はからずも明らかになったことは、今回の苛酷事故で、原子炉が崩壊するという異常事態が起きただけではなく、国の立法・行政の破綻(機能不全)に続き、司法も破綻するという異常事態でした。「人権の最後の砦」である司法は、事実認定で子どもらの命に由々しい事態の進行が懸念されると認めながら、結論で国の宝である子どもの命を救うことを放棄したからです。衝撃を受けた(日本を除く)世界の主要メディアはこの恐るべき矛盾判決を一斉に報道しました。以下はその報告です。
2、「ふくしま集団疎開裁判」(一審 福島地方裁判所郡山支部)
2011年6月24日、郡山の小中学生14人が郡山市を相手に、自分たちを年1ミリシーベルト以下の安全な環境で教育を実施して欲しいと求めたのが「ふくしま集団疎開裁判」(仮処分)です。憲法26条で、子ども達は安全な環境で教育を受ける権利を保障されており、単に3.11前と変わらぬ環境で教育を実施して欲しいと、大人より放射能の感受性が3~5倍高いにもかかわらず年1ミリシーベルトという大人の安全基準に合わせて、ごくつつましい希望を表明したものです。
裁判所は、半年後の審理の後、野田前総理の「冷温停止状態」宣言の同年12月16日、却下決定を下しました。要点は次の3点です。
①.低線量の内部被ばくの危険性を裏付けるチェルノブイリ事故との対比に関する債権者の主張・証拠をことごとく斥けたこと。
決定は「個々の債権者らについて,その具体的な内部被ばくの有無及び程度は明らかにされていない」としてこれら全てを不採用。しかし、債権者がこれらの証拠を個々の債権者も含む郡山の子どもたち全員に妥当するとして提出していたことは今さら言うまでもありません。
②.申立ての趣旨を債権者の念押しを無視して読み替えること
当初、債務者の郡山市が「申立は郡山市の小中学生全員の疎開を求めるもので認められない」と誤解したので、債権者は「本申立て手続で求めるのはあくまでも14名の債権者の救済であって、郡山市の小中学生全員の救済ではない」と念押しました。にもかかわらず、決定は、再び「14名の申立は郡山市の全ての小中学生を有無を言わせず一律に疎開を求めるというものである」と申立を強引に読み替え、そこから「その要件は厳格に解する必要がある」という結論を引き出し、「債権者の生命身体に対する具体的に切迫した危険性があること」を要件としました。これは、本件で問題になる長期間の潜伏期を経て現われる晩発性障害で、子どもたちはガン・白血病等を発病しない限り避難を認めないという残忍酷薄な結果を意味します。
③.弁論主義に違反して、事実認定をしたこと。
決定は、「100ミリシーベルト未満の放射線量を受けた場合における晩発性障害の発生確率について実証的な裏付けがない」と事実認定し、いわゆる100ミリシーベルト問題が債権者の命に対する危険性の判断について重要な判断要素だとして、債権者らが通う学校の空間線量の値が年間100リシーベルト以上であることの証明はないとして申立を却下しました。
しかし、100ミリシーベルト問題は審理の中でいずれの当事者も一度も主張したことのない事実で、決定の中でいきなり登場したのです。
3、「ふくしま集団疎開裁判」(二審 仙台高等裁判所)
一審決定は、処分権主義、弁論主義、証拠裁判主義などの近代裁判の基本原則を否定して、14人の債権者及びこれと同様の危険な中にいる福島の子どもたち全員に向って「君たちは自己責任で避難しない限りどうなっても知らない」と宣言したもの、つまり巨大人災により歴史上初めて日本人を仕分けする宣言をした未曾有の人権侵害決定でした(直ちに仙台高裁に抗告)。
二審で、債権者が一審決定の誤りを詳細に明らかにした結果、二審決定は一審決定理由をすべて不採用。審理に1年4ヶ月かかり、その間、チェルノブイリ事故との対比に関する証拠を含め低線量の内部被ばくの危険性を証明する膨大な証拠(甲102~248)を提出しました。その結果、本年4月24日の決定で、債権者の事実主張を全面的に採用する次の事実認定がされました。
(1)、郡山市の子どもは低線量被ばくにより生命・健康に由々しい事態の進行が懸念される。
(2)、除染技術の未開発、仮置場問題の未解決等により除染は十分な成果が得られていない。
(3)、被ばくの危険を回避するためには、安全な他の地域に避難するしか手段がない。
(4)、「集団疎開」が子どもたちの被ばくの危険を回避する1つの抜本的方策として教育行政上考慮すべき選択肢である。
(2)、除染技術の未開発、仮置場問題の未解決等により除染は十分な成果が得られていない。
(3)、被ばくの危険を回避するためには、安全な他の地域に避難するしか手段がない。
(4)、「集団疎開」が子どもたちの被ばくの危険を回避する1つの抜本的方策として教育行政上考慮すべき選択肢である。
しかし、主文は却下。子どもを安全な環境で教育する憲法上の義務を負う郡山市に、郡山市の子どもを安全な他の地域に避難させる義務はないとしました。しかし、どうやってこの結論を上記の事実認定から導いたのかです。何度読み返しても私には理解不能です。この裁判では子どもの命に衝突する価値はありません。天災でも子どもの命があぶないと事実認定されたら、直ちにその救済がされます。ましてや本件は人災で、子どもは遊んで原発を壊したのでも誘致に賛成したのでもなく、事故に百%責任がありません。純然たる被害者であるこどもの命が救済されない理由はどうやっても見つけることは不可能です。これは法律以前の人類普遍の原理です。この決定を読んだ米国の人権活動家のチョムスキーはこう表明しました。これは全ての法律家に向けられたものでもあります。
「裁判所が、健康への危険性を認識しながら、にもかかわらず、子どもたちを福島の地域から避難させようとする試みを阻んだことを知り、本当に驚いています。最も傷つきやすいもの、この場合、最も大切な財産である子どもたちをどのように扱うか以上に社会のモラルの水準を物語るものはありません。この残酷な判決が覆されることを強く希望し、信じます。」
80 年前、若き川島武宜は研究会で判例の報告をした際、末弘厳太郎から
「そのようなばかばかしい判例評釈をするなど、もってのほかである。そんな判例研究するような人間は、法律学の勉強をやめてしまえ」、2回目の報告でも「おまえのは概念法学だ。稲というのは現実に植えつけた人間のものにならないはずはない。ドイツでそうでないなどと言ったって、そんなことは理由にならない。問題の実質をよく見ろ」
とこっぴどく叱られました(「ある法学者の軌跡」66頁~)。
「裁判所が、健康への危険性を認識しながら、にもかかわらず、子どもたちを福島の地域から避難させようとする試みを阻んだことを知り、本当に驚いています。最も傷つきやすいもの、この場合、最も大切な財産である子どもたちをどのように扱うか以上に社会のモラルの水準を物語るものはありません。この残酷な判決が覆されることを強く希望し、信じます。」
80 年前、若き川島武宜は研究会で判例の報告をした際、末弘厳太郎から
「そのようなばかばかしい判例評釈をするなど、もってのほかである。そんな判例研究するような人間は、法律学の勉強をやめてしまえ」、2回目の報告でも「おまえのは概念法学だ。稲というのは現実に植えつけた人間のものにならないはずはない。ドイツでそうでないなどと言ったって、そんなことは理由にならない。問題の実質をよく見ろ」
とこっぴどく叱られました(「ある法学者の軌跡」66頁~)。
末弘厳太郎が二審の決定を読んだら、裁判官に向かってこう言ったにちがいない。それは同時に全ての法律家に突きつけられた言葉です――おまえのは概念法学だ。子どもの命が危ないのに救済しなくてよいはずはない。原子力ムラではそう考えないと言ったって、そんなことは理由にならない。問題の実質をよく見ろ。そのようなばかばかしい理由づけをするなど、もってのほかである。そんなことをするような人間は法律家をやめてしまえ。
二審決定を読んだチョムスキーはメッセージを寄せ、「最も傷つきやすいもの、この場合、最も大切な財産である子どもたちをどのように扱うか以上に社会のモラルの水準を物語るものはありません。」と述べました。子どもの命を守るというのは人類普遍の正義です。この正義が回復するまで、その取組みがやむことはありません。
二審決定を読んだチョムスキーはメッセージを寄せ、「最も傷つきやすいもの、この場合、最も大切な財産である子どもたちをどのように扱うか以上に社会のモラルの水準を物語るものはありません。」と述べました。子どもの命を守るというのは人類普遍の正義です。この正義が回復するまで、その取組みがやむことはありません。
未来は私たちの手にかかっているのです。