2015年、ノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチさんは、原発事故が人々に与えた影響について、こう指摘しました。
《チェルノブイリ事故は大惨事ではない、そこでは過去の経験はまったく役に立たない、チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも、人々はそのことを考えたがらない。不意打ちを食らったからです‥‥何かが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似た出来事も、体験も持たない。私たちの視力、聴力もそれについていけない。私たちの言葉(語彙)ですら役に立たない。私たちの内なる器官すべて、そのどれも不可能。チェルノブイリを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません。感覚の新しい歴史が始まったのです。》(「チェルノブイリの祈り」31頁)。
例えば、人の即死のレベルである10シーベルトの放射能は通常のエネルギーに置き換えたとき、10ジュール/kgで、これは体温をわずか0.0024度上げるにすぎない(→落合栄一郎講演会)。たったこれだけのエネルギーが放射能ではなぜ人に即死をもたらすのか。このような謎に満ちた放射能災害は科学的知見など人類のこれまでの知識では理解不可能な、未知との遭遇です。
そのような未知との遭遇の中で人々の命、健康、暮らしを守るにはどうしたらよいか。
この点について、アレクシエービッチさんは、最初、放射能に勝てると思っていた人々の、その後の変化について、こう述べています。
《人々はチェルノブイリのことは誰もが忘れたがっています。最初は、チェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだと分かると、今度は口を閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることは難しい。チェルノブイリは、私たちを、それまでの時代から別の時代へ連れていってしまったのです。その結果、私たちの目の前にあるのは、誰にとっても新しい現実です。‥‥ベラルーシの歴史は苦悩の歴史です。苦悩は私たちの避難場所です。信仰です。私たちは苦悩の催眠術にかかっている。‥‥何度もこんな気がしました。これは未来のことを書き記している‥‥》 (「チェルノブイリの祈り」33頁)
放射能災害で放射能に勝てると思ったら、その考えは人々を滅ぼす。 人間と違って、放射能に慈悲はなく、マインドコントロールも利かず、放射能は自己の自然的性質を無慈悲に貫徹するだけだからです。
そこで、放射能災害に直面して、放射能には勝てないと、つまり放射能の自然的性質に対し無力であることを認めた上で、人間が指針とすべき解決策とは何か。それが予防原則つまり、「将来取り返しのつかない事態が発生する恐れがあるものについて、その発生が起きないように前もって予防的な措置を取ること」です。
放射能災害の場合、この「予防的な措置」とは被ばくしないことです。具体的には、被ばくする場所・環境から逃げること、避難することです。この「予防的な措置」を国家の責任で実行することを明記したのがチェルノブイリ法日本版(→その条例モデル案)です。
くり返すと、
1、放射能災害において、人々の命、健康、暮らしを守る解決策のエッセンスは予防原則です。
2、予防原則を放射能災害に即して具体化したものがチェルノブイリ法日本版です。
◆未曾有の過酷事故である福島原発事故は、原爆とはちがうけれど、もうひとつの核戦争です。放射能汚染地域は桁違いな量でくり返される核分裂と同時に発射される放射線とのたえまのない戦いの世界だからです(※)。
この意味で、チェルノブイリ法日本版は放射能災害という一種の核戦争時において、放射能から人々の命、健康、暮らしを守る「放射能災害の憲法9条」です。
(※)福島原発から放出された大量の放射性物質によって、外部から、そして体内に取り込まれ内部から、桁違いな量でくり返される核分裂と同時に発射される放射線とのたえまのない戦い(年間1mSvだけでも「毎秒1万本の放射線が体を被曝させるのが1年間続くもの」(矢ヶ崎克馬琉球大学名誉教授))を強いられているからです。「核分裂による放射線の被ばく」という、目に見えず、臭いもせず、痛みも感じない、私たちの日常感覚ではぜったい理解できない相手との戦いの中にほおり込まれています。それは放射性物質(核種)からの攻撃という意味で核戦争です。