2013年、父が亡くなったあと、生前に彼が書いた「我が青年期」--といっても殆ど終戦前後の召集と満州での避難を記録した未完成の原稿が見つかった。
彼は、生前、この満州の逃避行について殆ど語らなかった。というより、私の子ども時代に、彼は語ろうとしたことがあったものの、語り始めや、顔はゆがみ、何かクシャクシャになったまま、絶句してしまうのだった。もともと口べたのせいもあり、そんなことが二度三度あったあとは、もうそれ以上、自ら続きを語ろうとしなかった。
しかし、私が20代の終わり頃、司法試験に6戦6連敗、どうあがいても乗り越えられないのではないかと絶望の底に沈んでいると、父は再び、満州の逃避行について語り始めた。田舎で妹の結婚式に参加し、久々に両親に再会した私に、同室の父は、フトンに頭をつけながら、
「あの頃は、眠りにつくたびに、二度と目覚めないんじゃないか、と毎日思ったもんだ。朝、目覚めると、ああ、まだ生きていると思った・・・」
「今でも、毎晩、そう思う」
とさらりと言った。この瞬間、私は毎年不合格で親を嘆かせている我が身の親不孝を実感した。
しかしその後、父にはそんな嘆きの気持ちは微塵もなかったのではないかと思い直すようになった。彼は私が不幸の底に沈んでいるとき、そのとき初めて、自分自身が戦争で経験した途方もない不幸を自分の肉親と共有できる稀有な機会にめぐり合ったと理解し、彼の体験を語ったのだ、と。
同時に、父の戦争期の体験が30年以上経った今も、毎晩蘇っているとは思ってもみなかった。
しかし、そう思って振り返ると、彼の言動の肝心なところはすべて戦争期の体験がそのまま反映しているとしか思えないことが分かった。 90歳の時、医師から「胃がんです。高齢ですから、無理することはありません。手術、どうしますか」と聞かれたとき、即座に「やります」と答え、そのあと父は、突然、満州での逃避行の話をし始めた。思うに、彼は、自分にとって人生の決断の瞬間にはいつも、彼が様々な試練に遭い、それと苦闘する中で生き延びることができた、満州の逃避行の体験に立ち戻って決断がなされたのだった。
敗戦のあと、日本人は気持ちを切り替えて、経済的復興に励み、経済的繁栄に成功したと言われている。その中にあって、彼はとても変わり者だった。なぜなら、生涯、「満州の逃避行」の体験にこだわり続けたから。
そのおかげで、 戦後、日本が経済的繁栄を極めたあとも、彼はその栄光に浮かれず、踊らされず、奢らず、昔と変わらぬ質素で慎ましく生きる姿勢を変えなかった。
しかし、なぜ彼は、経済的復興に邁進する日本社会の主流に合わせて一緒に踊らなかったのだろうか。なぜ彼は、経済的大国ニッポンから背を向けるようなあまのじゃくな生き方をしたのだろうか。なぜ彼は、戦争中の、こんな忌まわしい「満州の逃避行」の体験をさっさと水に流せばいいのに流そうとしなかったのだろうか。なぜ彼は、誰からも賞賛されないのに、ひとり、「満州の逃避行」ににこだわり続けたのだろうか。
思うに、戦前、朝鮮半島で日本が軍事的栄華を極め、我が世の春を謳歌して来た末に最悪の日を迎え、命からがら満州平野を逃げ延びた経験をした父の目には、戦後、日本が経済的復興に励み、経済的繁栄を極めた姿が戦前と重なりあって写っていたのではないかと思う。
戦後日本の経済的復興も繁栄も、隣国の朝鮮戦争、東南アジアのベトナム戦争に負うところが大であり、日本の経済的繁栄と戦地の人々の悲惨な死とが隣り合わせであることを知っていたからではないかと思う。だから、このような欺瞞に支えられた経済的繁栄はいつか必ず破綻し、2つの戦争(1つは人間と人間との戦争、もう1つは人間と自然との戦争=原発事故)という最悪の日を迎えることを確信していたのではないかと思う。
だから、そのような悲惨な事態にならないように、彼は、戦後、絶対永久平和主義者として、戦争反対を言い続けた。その彼の行動を支える原点は満州での悲惨な逃避行という体験だった。戦後の彼にとって、この体験は、もはや、過去のつらい、苦しい思い出ではなく、現在と未来の命(それは単に自分の子ども・子孫の命だけではなく、この世に生を授かった全ての人々の命に対しても)を守り抜くための、無知の涙を流しながら悟った貴い認識だった。幸い、彼は毎晩床につくたび、満州平野で流した無知の涙を思い出し、原点を思い出し、そのくり返しを最期まで続けた。
災いを転じて力となす--これが父が成し遂げたことだ。だが、これが実現するという保証はどこにもない。にもかかわらず、彼は満州の逃避行の体験を最後まで宝のように後生大事に持ち続け、その意味を考え続け、その姿勢を貫き続ける中で、とうとう、災いを生きる力に転化するという奇跡を成し遂げたのではないかと思う。
以上のことは、父が満州の逃避行を文章に書いてくれたからそれを読み、そこから考えをめぐらしたものである。もし彼の記録が書かれていなかったら、それは不可能だった。もし父の記録がなかったなら、子どもである私にとって、彼の貴い体験は存在しなかったにひとしい。否、彼の存在はなかったにひとしいほどに思えてくる。
彼の記録は、改行も句読点も満足になく、誤字・脱字に満ちている。
しかし、これは父から譲り受けた最大の遺産である。
※ 追悼 「父の涙、そして逃げる勇気」(2014.2.28)
柳原賢作「我が青年期」
(クリックすると原稿が表示)
※ 生まれ故郷:佐渡の赤泊
※ 終戦時の住所:朝鮮半島の羅南