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2015年2月5日木曜日

大地に緑を 壁に表現を(H・S「水曜日」88年12月)(2015.2.5)

先ごろ、ロシア・アバンギャルドの絵画をみて、衝撃を受けた。自分はまだこれほど多様な芸術の可能性を全く知らなかったのか、と。以下はその一枚。どんな人物が描いたのか、殆ど知られていない。
  ルイセンコ「雄牛」(下の絵)

これと同じような衝撃を与えてくれたエッセイを紹介する。どんな人物が書いたのか、20年前、日本一遊ぶ学校として知られ、菅原文太が理事長だった「自由の森学園」の生徒だったこと以外、知らない。しかし、この感性は我々の憧れだ、こいつは俺たちの宝だ!

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 昨日悲しい話を聞いた。
 高2の生徒が学校の校舎の壁に自分のやっているバンドのメッセージを貼ったところ、先生の手で勝手にはがされてしまったという。何度貼ってもそのたびに、次の日には根こそぎはがされてしまうそうだ。
 でも別に、彼女のビラが嫌がらせに貼っているわけじゃない。事実、掲示板に貼ってあるビラはそのまま残っている。
 彼女の書いたビラは、掲示板以外の場所に貼られたゆえに剥がされてしまった。
 でも、彼女は、掲示板に押し込められた画一的な表現に飽きたらなかった。もっといろんな場所で彼女のメッセージをみんなに伝えたかった。でも、自由の森という場所ではそういうことが許されないらしい。

 そこにある壁がただ白くあることがそんなに大切なのだろうか?

 白い壁を大地にたとえれば、そこに自然に種が運ばれ、芽吹き、草が生い茂るごとく、壁に表現がうまれ、広がってゆくのは当たり前ではないか。1枚のビラから生まれた出会いが、その人の人生まで変えることだってある。目の前にあるビラをただ機械的に剥がす前に、その1枚のビラから広がるかもしれない人々の輪を想像することのほうがどんなに楽しくて意義のあることだろう。

 大地に除草剤をまくごとく、白い壁に芽吹いたささやかな表現を殺してしまえば、命を失った大地のごとく、壁も死んでしまうだろう。死んでしまった砂漠は美しくあるけれど、何も生み出さない。

 自由の森の先生たちは、確かに素晴らしい理想を持っているけれど、自分の足下である学校から、雑多な可能性がつみとられていく現状ではその言葉もうつろにしか響かない。自由の森は、製品を作る工場ではない。誰かの夢のなかの箱庭ではない。

 もう一度繰り返すけれど、そこにある壁がただ白くあることが、なぜそんなに重要なのだろうか?いったい誰がどういう権限のもとに、なんの権利があって、僕たちの表現を殺し、僕たちの可能性を押し消そうとするのか?

 壁はただ白くあることが、もし重要であるのなら、そのわけを教えてほしい。」


                                  (H・S「水曜日」88年12月)