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2014年10月22日水曜日
つぶやき(6)400年前まで、日本は世界有数の訴訟超大国だった(2014.10.22)
先日、福島から電話をいただいた方に、子ども脱被ばく裁判の話をしたとき、
「裁判の原告になるって大変ですよ」
という話しになり、そのとき、
「原発告訴団は、相手を処罰せよだから、もし間違って訴えたら、冤罪で大変なことになる。だから、それができる位だったら、こどもを逃がして欲しいと訴えても、仮に間違ったとしても、誰も迷惑を及ぼさない。だから、本来なら、もっとぜんぜん気を楽にして原告になれる」
というのが私の感想でした。
で、その方は、そもそも裁判の原告になるというのは、普通ならあり得ないという風に思い込んでおられる様子がありあり(^_^)。
私が、欧米では、下宿人が家賃を払わないと家主はさっさと裁判を起こす、まるで買い物でもする感覚ですよ、と言っても、それは海外のことだからと信じてもらえない。
それで、日本でも、少し前までは、欧米と変わらなかったことを伝えようと思ったのですが、ちゃんと証拠を示さないと説明責任を果たしたことにならないと思い、そのあと、調べた結果を報告します。
網野善彦という日本の中世の研究者として代表的な人物がいますが、彼の「中世の裁判を読み解く」という本の中で、鎌倉時代に、民衆が時の政府の役人や政府が保護する寺を相手に裁判を起こして、勝訴した記録を読み解いています。
網野善彦は、まえがきで、13世紀に、世界史的にみても例のないほどの充実した裁判手続が作られ、それに基づいて裁判が行われたことに、ビックリして、これについてもっと考えなければならないと述べています。
網野善彦は、別の本「日本中世の民衆像」の中で、この裁判について、こう解説しています。
この史料は、静岡の、傀儡と命名された原告(全員、尼層の姿をした女性だった)が、鎌倉幕府の法廷で、源頼朝の寺(寿量院)の訴訟担当の役人(雑掌)と訴訟を行い、
「幕府の法廷で、幕府の保護する寺院の雑掌と堂々とわたりあって、訴訟に勝ったことを示す史料であります」
これを現代に翻訳すると、
全員女性が、国の法廷で、国の保護する団体(自治体)の代理人と堂々とわたりあって、訴訟に勝った」
ようなものです。
で、こうした裁判はまれなことか?というと、とんでないことで、網野善彦の「日本社会の歴史」の中に、次のように紹介されています。
(1221年の東国・西国戦争<承久の乱>のあと)
鎌倉幕府から任命され、各地の荘園の管理を任された地頭は、幕府の力を背景に、その支配方式を平民百姓に強要‥‥。
しかし、こうした地頭への従属を不当とする平民百姓たちの抵抗が各地で激烈におこり、その訴えを支える領家・預所と地頭との訴訟・相論が各地で頻発した(中巻128頁)
(1333年、鎌倉幕府が崩壊し、後醍醐天皇の専制のスタート)
後醍醐天皇は、関東の引付にならった民事法廷、雑訴決断所を設け、ここには腹心の貴族や武士だけでなく、関東の旧評定衆なども大幅に採用して、押し寄せてくる膨大な訴訟の解決に当たらせている。(下巻3頁)
網野善彦が編集委員をやっている「日本の社会史」5巻 裁判と規範の中の「中世の訴訟と裁判」の冒頭に、
笠松宏至は、鎌倉中期以降の公家政権の「雑訴興行」(裁判制度を充実し、裁判を活性化させること)が徳政の最重要課題であったことを指摘し、公家政権がそのように対応せざるを得なかった理由を、平安末以来の民間における寄沙汰や大寺社による強訴の盛行、‥‥に求めた。
とあります。
つまり、12世紀から16世紀にかけて、日本は世界有数の訴訟先進国・訴訟超大国だったということです。
その後、秀吉の天下統一、家康の徳川時代になって、これがばたっと途絶えました。そのため、のちの時代の私たちは、500年以上前の私たちがどんな姿だったのか、忘れてしまいました。
というより、この500年間、500年以上前の市民の姿を正しく伝えないように、時の支配者たちは心を砕いて来ました。マスコミももちろんそうです。
私は以前、NHKの大河ドラマの裁判の仕事をしていたので、調べたことがあるのですが、こうした事実は決して紹介しようとしないタブーです。
大河ドラマで、信長、秀吉、家康、武田信玄、上杉謙信は何度も何度も登場しても、彼らの最大のライバルだった一向一揆の百姓たちについては、まず取り上げません。
(もちろん中世の裁判のことも取り上げません)。
しかし、当時、京にのぼる(上洛)一番乗りとされた上杉謙信がなぜ、それが果たせなかったのか?それは一向一揆の百姓たちに京への進撃を阻まれ、それを克服するために消耗して、力を使い果たしてしまったからです。
越中一向一揆・北条との戦い・尻垂坂の戦い
似たような話はやまほどあります。
幕末、なぜ、会津藩は滅びたのか? 薩長軍のせいではありません。薩長軍はきっかけにすぎません。会津の民衆が起こした世直し一揆が滅ぼしたのです。
>会津藩でも9月22日に若松城が落ちると、領内(特に戦場にならなかった地域を
>中心)に会津世直し一揆が発生、領内のほぼ全域に拡大した。領民は会津藩主
>松平容保の京都守護職就任以来の重税に対する不満を一気に爆発させ、藩の支
>配組織を完全に解体に追い込んだのである。
私の生まれた越後長岡でも、河井継之助が敗れた最大の原因が薩長軍ではなく、長岡の民衆が起こした世直し一揆のせいであったことを最近、知りました。
>長岡藩では5月19日に長岡城が落城すると、米の払下や藩による人夫徴用に反対
>する一揆が発生した。5月20日から吉田・巻一帯で発生した一揆は領内全域に広
>がり一時は7,000人規模にまで達するものとなった。これに対して長岡藩では、
>新政府軍と戦っていた部隊の一部を引き抜いて鎮圧にあたった結果、6月26日に
>ようやく鎮圧した。これによって長岡藩の兵力が減少したのみならず、人夫動
>員も困難となり河井継之助の長岡城奪還計画は大幅に遅れて、結果的に新政府
>軍に有利に働くことになる。河井継之助の命運を尽かせたのは実は新政府軍の
>兵器ではなく、領民の一揆による抵抗による作戦好機の逸失であったと言える。
以上は、
戊辰戦争と慶応4年の一揆
500年前の日本人が、いま、生きていたら、きっと、みんな、訴訟を起こしていたでしょう。
500年前の日本人と現代の私たちがそうちがっている訳ではありません。一方は、不当なことが行われたんだったら訴訟起こすべ、と当たり前のように思い、他方は、
不当なことが行われたとしても、訴訟を起こすなんて、と当たり前のように思っています。
どっちになるか、たまたま生まれた時期がちがうだけで、考えがちがってくるなんて、おかしな話です。
太平・平安な時代なら、どっちでもいいですが、
ボヤボヤしていたら、取り返しのつかないことになるときに、どっちの考えが生き延びるために必要かは、500年前の人に聞かなくても明らかです。
※補足
網野善彦という中世研究者の「日本中世の民衆像」によれば、
もともと朝廷の儀式の意味として使われた公事(くじ)が、室町時代から、裁判、訴訟の意味でも用いられるようになったのはなぜか?と大変面白い問題だと自問自答しています(76頁~)。
思うに、裁判が個人の小さな問題ではなく、国の一大政治(まつりごと)として位置づけられるようになったからではないかと思います。それくらい、裁判は当時の日本人にとって、頻繁に目にする日常の出来事だったのです。
興味深いのは、ポルトガル語の「日葡辞書」が最近、日本語に翻訳され、それによると、
公事(くじ)をする、という意味が、天然痘にかかる、ことだと紹介されています。
これについて、網野善彦は、こう説明します。
「つまり、いやなことだけれど、だれもがしなくてはならない、世間一般の人が皆すること、という意味なのでしょうか。‥‥公事(くじ)の意味を考えるためにも、これはかなり大切なことだ考えます。(77~78頁)
ここから、次のように考えることができます。
この当時、裁判をするというのは、いやなことだけれど、だれもがしなくてはならない、世間一般の人が皆すること、それくらい、公共の出来事だった、と。
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